理念 建築 略歴 連絡
文章 視察 還流独歩 大福企画
還流独歩

白熱する電球論争 2010.03.18

白熱する電球論争といっても、多分、実は誰もそんなに議論はしていないと思う。私が勝手に言っているだけだ。

某メーカーが120年にわたってつくり続けてきた白熱電球の製造を中止したと聞いて、何だかとても残念な気持ちになった。それが時代の流れだとか、古いものが新しい技術に淘汰されるのは当然だ、と当たり前のように受け止めて良いものだろうか。保守的だと思われようが、古くさい人間だと言われようが、それを素直には受け入れられない気持ちが私にはある。

白熱電球は、蛍光灯やLED照明よりも、消費電力に対して得られる照度は低いし寿命も短い。だから同じ照度を得るには、たくさんの白熱電球が必要になるし、フィラメントが切れてしまえばゴミになる。それは私もわかっている。でも大切なのは、同じ照度を得ることだけを基準にして評価することではないように思う。必要な明るさとは何か、どういった明るさが本当は必要なのか、ということの議論もなしに、効率の問題だけを重要視して、白熱電球をこの世から消し去ってしまうことははたして正しいのだろうか。

私は蛍光灯もLED照明も必要だと思っているし、これからは主要な照明方法になるとも感じている。でも、白熱電球には別の良さがある。その良さの一つは空間を軟らかく照らし出すことだろう。それと同時に、ぼんやりとした陰をつくり出してくれることも見逃してはならないと思う。以前にも書いたが、明るさと陰影は対峙するものでありながら、互いに共存することで、空間を演出する大切な役割を担っている。

そう思うと、蛍光灯というのは陰影をつくる照明ではなく、均一な明るさを求めるための照明装置であることがわかる。LED照明はどうだろうか。基本的には点光源だが、いくつか並べることで線光源にもできるから、多様な使用方法が考えられるだろう。その寿命の長さにも着目したいし、その技術もこれからますます進歩して行くに違いない。それは大切なことだと思うけれど、その一方で、何となく、かっちりし過ぎているというか、曖昧さが少ないと言えば良いのか、何となく適度な適当さが足りない感じを私は受けてしまう。

照明に求められる適当さ、と言っても理解してくれる方は少ないかもしれない。例えば裸電球は、天井からだらしなくぶら下がっていても許せるけれど、LED照明ではそうはいかない気がするのだ。天井や壁のどこかにきっちりと埋め込まれていなければLEDとしての格好がつかないように思う。もちろん、線光源型の卓上照明であれば天井から吊るしても良いかもしれない。でも、やっぱり白熱電球が持つ柔らかで拡散的な光の広がりまでは再現できないのではないだろうか。

白熱電球に肩入れしてしまうのは、私の感情のどこかに残されている懐古主義的な部分が微妙に反応して、白熱電球がなくなってしまうことに対する一抹の寂しさを感じているだけなのかもしれない。だけど、レコードや真空管アンプが見直されてきているように、私は20年後くらいに、白熱電球の良さが再認識されると勝手に思っている。いや、カセットテープと同じで、これからも、しぶとく残り続けるに違いない。

日本全国で、電球がどれくらい使われているかわからないけれど、自宅のお手洗いは白熱電球だという家がまだ大半を占めているはずだ。使用頻度が低いとはいえ、万一切れてしまったときに、もし電球が手に入らなくなっていたら、夜は暗い中で用をたさないといけなくなるだろう。それは勘弁して欲しい。誰でも簡単に取り外せて交換できる白熱電球がなくなれば、電球用のソケットもなくなる運命にある。一番手軽な照明方法が簡単になくなって良いはずがない。

私が死ぬまで電球を何度換えることになるのかわからないけれど、東京でもドイツでも、白熱電球を使って明暗のある照明空間を楽しんでいる私は、売り切れてしまう前に、いま使っている電球を買い占めておくべきかもしれないとさえ思い始めた。そして20年後くらいまでは、白熱電球が持つ少し寂しげな感じと軟らかな明るさを享受しながら、たまに生じる電球切れの際の交換も楽しむ余裕を持ち続けたいと思っている。

新しいものに切替えるのが早くて得意な日本だから、20年後に、白熱電球が静かな流行、などと取り上げられるのを密かに待つとしよう。少し気が早過ぎるか・・・。

« »