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還流独歩

句読点 2011.01.11

日本語の標記の特徴の一つとして、句読点の存在を挙げることができるだろう。日本語の文章は「、」と「。」で構成されている。アルファベットを使う言語には、単語の間は空白だし、文末はピリオドだけだ。中国語も同様だし、韓国語も然りである。タイ語は読めないが、句読点は多分ないだろう。おそらくアラビア語にもない気がする。

そもそも、文章の中に二つの記号を入れるというのは極めて特殊だと思う。「、」と「。」のどちらかだけなら理解できるが、二つを使い分けるというのは、良く言えば非常に優秀な言語だし、悪く言うとやけに面倒で複雑ということになるのかもしれない。しかも点/ピリオドではなく、「。」というのもかなり変わっている。

ドイツの友人に日本語の文章を見せると、たまに訊かれるのが、この句読点の意味だ。「。」は文末を示すというのはだいたいすぐに理解できるようだが、途中に「、」が入る意味が良くわからないらしい。日本の人だって、この「、」について正確に説明できるかと尋ねられたら答えに窮する人が多いと思う。私も同じだ。

そこで、ほんの少しだけ調べてみたら、いまの句点と読点の仕組みができ始めたのは明治時代くらいらしい。自分で調べたわけではないので正確さに欠けるが、「、」と「。」を現代と同じように使うになったのは、おそらく戦後の国語の教育や教科書が大きな役割を担っているのではないかと私は思う。

それはさておき、日本語の文章の中に、もし「、」がなかったらどうなるだろうか。まったくないと非常に読み難くなることは確かだが、その代わりに空白を入れれば、その問題はある程度は解消されるかもしれない。例えば、「日本語には ひらがなとカタカナ そして漢字があります」と書かれたら変には見えるが、読むことは問題なく可能だ。

そうなると「。」がなくても文章としては成り立つだろう。句読点がないと何となく寂しい感じがするし、間抜けな文章に見えるだけで、意味が通じないということはないはずだ。そういえば、詩や俳句には句読点がない場合が圧倒的に多い。詩は改行が多いし、文字数も少ないから問題ないのだろう。

自分でこうして文章を書いていて思うのは、句読点がないとやはりおかしい。ということで 今日は句読点について考えてみた ほとんど意味などないが 普段 これだけお世話になっているのに きちんと注目してあげたことがないので 最後にこの文章を書くことで 「、」と「。」の存在価値を再認識したいと思うのである

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