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還流独歩

食と情報 2011.04.02

私も含めて日本の人は、ある特定の部分だけに限ると、多くの中から一つを選ぶのが好きではないかと思う。いや、そう言うと語弊があるかもしれないので、言い換えると「ある分野においてはたくさんを許容できる」ということになるだろうか。あるいは「多様さを受け入れる寛容性」と言っても良いかもしれない。もちろん、それに当てはまらないことはたくさんあるが、多彩さの受容力という視点で考えれば、その一つは紛れもなく「食」ではないかと思う。

世界中のことを知っているわけではないが、日本食文化が持つ多様性は世界一といって良いだろう。しかし、何百年もかけて築いて来た食の文化が、根底から破壊されてしまう極めて重大な事態が起きてしまった。人間が普段の生活の中で口にしているものすべては、大地と海から得られるものである。牛乳や卵、あるいは肉も、大地から得られる食物が動物を媒体として姿を変えたものばかりだ。誰も宇宙食のようなものだけで生きて行けるわけがない。

これまで日々の食事に気を使ってきたのに、これからはもっと注意することが必要になってくるだろう。いや、あるいは逆に、その必要もなくなってしまうくらい何を食べれ良いのかわからなくなってしまう事態にさえ、すでに陥っているところもある。特に子供がいる家族などは、毎日の献立に留意するどころか、いままで食べさせていたものを与えて上げられないという状況にさえなってしまう。気をつけようにも、気をつけようがない。

食べものに留意するのは、自分の身体に直結することだからだ。そういう私は、さほど気にしていない面があるので、こんなことを書くのは本末転倒なのだが、健康に関係することについては、多様な情報を得たいと思うのは自然なことであろう。それに対して、もっともらしく流れて来る情報ついては意外と鈍感なってしまうこともある。食べものについては、栄養やビタミン、あるいは生産地や賞味期限を気にするのに、情報のそれは鵜呑みにさせてしまう力がある。

食べものに対して多様な気遣いが必要なのと同じように、自分の身にはすぐには影響を及ぼさないように思える情報についても、多角的な面で捉える必要があるのではないだろうか。一元的な見方に慣れてしまっていると、いつの間にか食を生み出す大切な大地も海も空気も、すべて失われてしまうことになりかねない。食と同じように、情報にも多様性が求められると思う。食べたいものは自分で決めるように、情報の判断もそうあるべきだろう。

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