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還流独歩

扉と引戸 その1 2011.08.06

先日、北海道開拓の村を訪れたときに改めて確信したことがある。それは言うまでもなく、引戸という建具が、日本古来の民家にとって実に理にかなったものであるということだ。扉というものが、閉めるか開けるかのどちらかの機能しか持たないのに対して、引戸はどの位置でも止めることができる。

もちろん扉であっても、床との隙間にくさび状の留め具を入れれば、半開きの状態で止めておくことは可能だが、通風を考えたときに機能的なのは、明らかに引戸の方であろう。しかも、ほんのわずかの隙間を開けておくこともできるし、もう少し開けば、隔てた互いの空間の雰囲気を何気に察することさえ可能になる。

良く言えば、適度な開き具合が微妙な空間どうしのつながりをつくり出すとともに、風の流れも調節できる一方で、悪く言えば、気密の取れない中途半端な開口部ということになるのかもしれないが、引戸と扉のどちらが優れているかという判断を下すことには意味がないように思う。

扉の開閉が「0」か「1」かのデジタル的機能を有しているとすれば、好きなように開いた状態にしておける引戸は、実にアナログ的な存在といえるだろう。そう、良くも悪くも日本人的な感覚というのは、この引戸に象徴されるような、適度に調整された開き具合なのかもしれない。それは思考方法に影響を与えているのではないかとさえ思うのだ。

10年以上に亘るドイツの生活を通じて、日本とドイツを比較することが多い。それは何が違うかを考えるだけで、優劣をつけるのとは違う。そして時折、日本人とドイツ人は似ていると言われることがあるが、実際はどうなのかと二択で訊かれたとき、私は絶対に似ていないと答えている。その似ていなさが、扉と引戸に現れている気がするのである。

もちろん、扉はドイツにだけに存在しているわけではないし、引戸だって日本の建築にのみ見られるわけでもない。だから、建具の違いをドイツ人と日本人の考え方の違いに結びつけることは、あまりにも極端過ぎて拒否反応を示す人もいるのではないかと思うが、あくまでも比較の一つだと大まかに捉えて頂ければ幸いである。

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