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還流独歩

夏の終焉と東京の街並み その1 2011.08.19

早朝水泳から戻る途中で雨がぱらつき始めた。傘をさしている人が多くなったが、まだそれほど濡れるような状況ではない。帰って天気予報を見ると、今日は関東地方で大雨が予想されているという。気温も少し下がるようだ。長期予報を見ると、最高気温が30℃を超える日があるものの、本格的な夏は、この雨とともに過ぎ去って行ってしまいそうだ。私は気象予報士ではないが、何となくそう感じるのである。

昼前から雨が激しくなった。午後は出かけるので、早めに昼食を済ませておこうと思っていたのだが、この降り方だと、傘があっても濡れてしまいそうだ。待っていても止みそうにないので、すぐ近くで簡単に済ませると、その間に雨の勢いは少しだけ落ち着いたようだ。今日は明らかに、いつもよりも気温が下がっているのがわかる。雨は降っているのだが、湿度もそれほど高く感じないのは、あまり暑くないからだろうか。

夕方、講習を終えて外に出てみると、かなり涼しい。雨もほとんど止んでいるので、お茶の水から神保町方面に歩いてみることにした。ここには男坂と女坂という二つの急勾配の階段がある。真っすぐな男坂の段数は73段だが、少し曲がっている女坂の方は知らない。ここを通るのは本当に久しぶりである。それにしても東京という街は、建物の凹凸の激しい都市である。ここまで無秩序に開発できることに脱力感さえ覚える。

角地に建っている建物は、容積緩和で背が高いが、そこから一軒隣りは低く、斜線制限を受けて外壁が斜めに切り取られている。そんな光景は都心では、どこにでもある。この理不尽とも思える法的制限は、一体、本当に有効なのだろうかといつも思う。そして誰のために存在しているのだろう。歩きながら、解体の貼り紙がある建物もいくつか見かけた。こうして壊しては造ることが続いて行く。それが東京の魅力の一つなのだろうか。

涼しい風を受けながら、路地裏を見つつ、そんなことを考えてしまう。考えたところで意味などないが、やはり考えてみる。東京に限らず、日本はすべて、土地を基準にした不思議な都市構造の上に存在している。それが悪いと指摘したいわけではない。ただ、その現実を見ると、建築という文化が果たして根付いているのかということにさえ疑問が沸いて来る。土地だけは歴史も文化も生み出さない。それは上に建つ建築があってこそ可能になるはずだ。

土地を持っていることが悪いことではない。土地の価値が高過ぎて、建築は土地の付帯物でしかないことが問題なのだ。だから30年で建て替えても、土地さえ残っていれば良いわけである。何を建てるかもほぼ自由で、法規に準拠すればどのように建てようが、それは個人の権利である。そうしてでき上がっている日本の街の構造は、一見、多様でありながら、そこに全体をまとめる規律などは、一切、存在していないから、無秩序という統一感を生み出している。

「建築に文化を」などと、こんなところで声高に叫んでみても、そんなことを求めている人など、ごく少数派だろう。そう書くと、一般の人たちからだけでなく、建築の専門家や不動産関係の方々から、おそらくお叱りを受けてしまうかもしれない。でも、東京の街並みからは「時代の厚み」がまったく感じられないのは事実だ。それを簡単に言い換えれば「歴史」かもしれないし、また「時間を携えた古さ」のことであろう。それがない街には愛着は生まれないように思う。

加筆訂正:2011年9月7日(水)

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