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還流独歩

ゆで卵とお婆さん 2012.01.10

日本の人は、ゆで卵を食べるとき、殻を手で剥いて食べると思う。中には上品な人がいて、そんな食べ方はしないという人もいるかもしれないが、大抵の場合は、殻を全部とって、そして手で持つなりして食べるはずだ。一方、ドイツやヨーロッパでは、ゆで卵を小さな容器に乗せることが多い。そして、スプーンで卵の頭を叩き、その部分の殻をとって、スプーンですくい出すようにして食べる。知っている方にとっては他愛もない話で恐縮だが、知らない人も中に入るかもしれないと思ったので、念のため書いてみた。ちなみに、ゆで卵を置く小さな容器のことを「エッグスタンド」と言うらしい。わかりにくいので「ゆで卵乗せ器」ということにする。

ところで、この「ゆで卵乗せ器」を使って卵を食べる方法として、いまスプーンで殻の頭を叩いて割ると書いたが、ナイフを使う人もいる。鉛直方向に置いた卵の上部に横からナイフを当てて、一気に切り取ってしまうやり方だ。実は私も試したことがあるのだが、どうしても奇麗に切ることができない。上手な人は、殻が砕けることなく、しかも切った面が滑らかになるくらいに奇麗に切り落とせるのだ。ナイフとフォークを使うの国の人たちは、こんなことが普通にできるのだろうか。おそら普通の日本人にはできないだろうし、箸を使う国が多いアジア諸国の人たちにも無理ではないだろうか。おそらく切り込みを入れてあっても無理ではないかとさえ想う。

そしてある日、私はドイツの宿泊先で、とある光景に遭遇した。どんなホテルだったかは忘れてしまったのだが、田舎のこじんまりとした、いわゆるペンションのような小さな宿だったと記憶している。仕事や出張の人たちが使う都会の大型ホテルなら朝食のときもそれなりに賑やかだが、あまり大きくはない街にある宿は大抵静かで、特に朝食のときには、それが一層強く感じられる。コーヒーを注ぐときや、パンにナイフを入れて切るときの音が静寂の中に広がって行く。そんな雰囲気の中、私の近くに優しそうなお婆さんが座っていた。軽く挨拶を済ませて、私も食事を始めた。そして少し経ったときに、お婆さんがゆで卵を手にしているのが見えた。

そのお婆さんの食事を見るつもりはなかったのだが、卵を皿の上にゆっくりと横に置くのが自然と視界に入って来た。そして次に、卵のやや尖った側に静かにナイフを当てると、お婆さんの優しい雰囲気からは想像もできないような素早い動きで、卵の頭を一瞬のうちに切り取ってしまったのだ。ナイフが皿に強くあたったときの甲高く鋭い音が、朝食の静かな空気を一瞬にして切り裂いた。私の心も…というと大袈裟になるが、それはテレビドラマに出て来る必殺人の仕事か、獲物を仕留めるときの銛(もり)の一突きのようにさえ見えた。そしてお婆さんは、またゆっくりとした動きに戻り、ゆで卵を卵乗せ器の上に置くと、スプーンを使って静かに食べ始めたのである。ただのゆで卵なのに、この動きの落差が強烈な印象として残った。

ドイツのどこかのホテルに泊まり、朝ご飯を食べるときに、ふとそのお婆さんの素早いナイフの動きをなぜか想い出してしまうのである。

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