環流独歩/Weblog

2009年9月から「環流独歩-かんりゅうどっぽ」という標題で、日々の活動や、普段、思い描いていることを書き始めました。これは、JIA/日本建築家協会東海支部が毎月発行している会報誌「ARCHITECT」に寄稿させて頂いたときに、自ら付けた標題をそのまま使用しています。

移動などが多いため、抜けているところや、日付を遡っての更新も多々あります。また、どうしても誤字脱字が出てしまうため、後日、読み返して気がついた箇所は、適宜、加筆訂正等を行っていますので、その旨、どうぞご容赦下さい。

なお、文字しかないので、他のページ同様、殺風景な画面ですが、しばらくはこのまま続けたいと思います。
 
加筆訂正:2010年4月24日

環流独歩一周年 2010.09.01

月並みな話で誰もが気がつくような話で恐縮だが、今年も3分の2が過ぎ、残り4か月になった。そして、昨年9月に、この環流独歩を書き始めてから早くも一年が過ぎた。更新が遅くなったり、抜けてしまった日もあったが、それでもほぼ欠かさずに、書き続けられたのは自分でも意外である。

僅か一年とはいえ、正直なところ、止めようと思ったことは何度もあった。というのは、書かなくても誰も困らないからだ。もちろん、読んでもらえることは嬉しいが、更新しなくても誰かに迷惑がかかるわけでもない。むしろ私のことを知らない人がこれを読むことで、あらぬ誤解を与えてしまい、それが問題になるのではないかという不安があった。

以前にも書いたが、私が自分の日々の思いを書こうと思ったのは、ある勉強会でお会いした講師が、ご自身のサイトで仕事や私的なことを冷静に分析しながら自由に語っているのを読んでからである。この方の勉強会に参加したとき、私の発言を聞いていた講師は、「こだわりがあるのは他ならぬ、あなたの方ですね」と鋭い指摘をされた。

彼は私の言動から、私の考え方や性格まで一瞬にして見抜いてしまったのである。実に的を得た指摘に、私はそのこだわりを逆に活かして行けば、それで良いのかもしれないと気づかされた。ここ数日も書き綴っているように、私にはこだわりがたくさんある。それを自分なりのことばで発信すれば良いと思うようになった。

こだわりというのは価値観の一つなのだと思う。いまの私の根底にあるものは、大学の研究室で学んだこと、設備設計者として働いていたときの視点、そして10年に亘るドイツでの生活を通じて体験した異文化の観点という三つから成り立っていると思う。だからこそ、振り返ってみれば、確かにそんな視点で書いてきたことが多いようだ。

ところでその講師は、もはや逃げも隠れもできないと言っている。私も事務所の開設とともに、このサイトを立ち上げた。もう少し建築的な情報を増やしたり、設計事務所らしい体裁にしたいと思いつつも、大きな改訂をすることなくこの夏に3年目を迎えたのだが、このウェブを公開してしまっている以上、私もどこかへ逃げ出すことはできない。

インターネット上にはたくさんの情報があり、さまざまな人がいろいろなことを自由に発信できる時代になった。私の名前で検索をすれば、少ないけれど、それなりの情報が目に留まる。私が誰で、どんな人なのかという情報を膨大な磁気情報媒体の中から消し去ることはもはや不可能である。

だからこそ臆することなく、自分の存在を素直に、そして謙虚に発信して行きたいと思っている。

レジ袋で考える その3 2010.08.31

その2からの続きです。

これはまったくの余談になるが、いつだったかパリで見た女性は、長いバケットを何も包まず、手に持つところだけ紙を巻いて颯爽と街を歩いていた。これには少々驚いたが、過剰包装ならぬ「過少」包装だろう。欧州はどこでもだいたいそうなのだ。日本の行き過ぎた包装も槍玉に上げられているが、程度の問題だろうとは思う。

結局、何が言いたかったのかというと、もう自分でもわからなくなってきているのだが、話を元に戻すと、要はレジ袋を持って歩くことが私はあまり好きではないということだ。もちろん私だってレジ袋を絶対に使わないわけではない。布袋を持っていないときは素直にもらう。少量のゴミを出すときにも少しは重宝するから、4、5枚は常に持っている。

レジ袋の利用が日本で減らないのは無料だからだ。これを有料にして、日本全国での使用量を大きく減らしたとしても、世の中で消費される化石燃料はまったく変わらないに等しいだろう。エコバッグを持つことで環境への意識が高まることは悪くないが、そんなことをしても環境を守るといったことには一切つながらないと思う。

職場に出かけるときや、外出のときに、常に布袋を持っていくのは、それほど面倒ではない。でも袋など、どこでも気軽にもらえるから、誰も持って出かけない。某コンビニエンスストアで「この袋に入れて下さい」と言って布袋を差し出すと「エコにご協力有難うございます」と言われる。私はレジ袋を持って外に出るのが嫌なだけなのに。

そういえば、日本には風呂敷というものを包む文化がある。いまはほとんど使われていないし、例えば実際に買物で使うとなると難しいが、その昔はものを持ち歩くときに、きっと重宝したことだろう。そしていまは、外出するときには鞄などを持って出かけるのだから、その中に布袋を入れておくことだってできるはずだ。私もそうしている。

そんな生活を続けていたら、鞄に布袋が入っていないと落ち着かなくなった。少し重い書類も入るし、帰りにスーパーで買物をしても適度な量が入れられる。使い終わったら、たたんでまた鞄に入れておく。無駄なゴミを減らそうとか、環境のために自分ができることから始めよう、などといった大層なことなど私は一切考えていない。

レジ袋を持っていると何となく貧相に見えるのではないかと思っているから、それがほんの少しでも軽減されるように布袋を使っているだけなのである。

レジ袋で考える その2 2010.08.30

その1からの続きです。

格好の良い流行のスーツを着て、高そうな良い鞄を持っている男性がいるとしよう。もちろん私はそれには該当しないから構わないのだが、そんな人がレジ袋を下げていると、私は何となく気になってしまうのである。でも、そんな人はたくさんいる。だから日本では別に変には見えないのだと思う。でも、スーツにレジ袋というのは微妙な感じだ。

別に布袋だったら格好がつくというわけではないし、持っていることで、その人の印象が良くなるわけでもない。ビジネスマンは、正しいエコバッグを持つべきだと主張するつもりも毛頭ない。自分のことを棚に上げて言えば、格好とレジ袋の不釣り合いが、単に気になるのだと思う。だから、布袋持ち歩き運動を広く展開しようと思ってもいない。

では、女性の場合はどうだろうか。これについては私は特に言うことはない。というのは、実はあまり気にならないからだ。スーパーに買物に行き、買物袋を下げて家に帰るというのは、ごく一般に見られる光景だ。でも、昔は買物かごとかを自宅から持って行っていた気がする。しかも、その方が格好良く見えるのは私だけだろうか。

ドイツの話で恐縮だが、百貨店を除く、普通のスーパーのレジ袋は、どのお店でも基本的に有料である。私は買ったことがないのだが、確か一枚20円くらいすると思う。大抵の人は袋は買わないのだが、もちろん買う人もいる。ただ偏見を承知の上で言わせてもらうと、所得層の低いと思われる人の方がレジ袋を多く買っているように見えるのだ。

一般の人はどうかというと、若者はリュックサックを背負って買物に来るし、買った物が少なければ、手提げ鞄にそのまま入れる人もいる。肩掛けの布袋を持っている人もいるし、お店の脇に置かれた梱包用の小さな段ボール箱にそのまま入れて持って帰る人も珍しくはない。買物かごを持参するなど、ごく普通の光景だ。

こんなことを書くと、「やっぱりドイツは環境先進国だ」とか「エコな生活をしている」と思う人がいるかもしれないが、ドイツの人すべてが環境を考えて生きているわけではない。ただ、無駄なものは減らしていこうという意識は、他の国に比べると少しは高いのかもしれないとは思う。しかもドイツ語ではエコバッグなどと言わない。単なる袋だ。

その3へ続きます。

レジ袋で考える その1 2010.08.29

最近、好き嫌いについての話が多いのは、ずっと暑さが続いているからだろうか。気温も湿度も、もう少し低ければ、身体の疲れもないし、精神的にも良くなるのではないかと思うが、暑さのせいで思考回路が後ろ向きになっているのかもしれない。今日も同様の流れである。

日本のスーパーマーケットやコンビニエンスストアに行くと、通称「レジ袋」がもらえる。私は、このレジ袋が好きではない。だからいつも布袋(ぬのぶくろ)を持ち歩いている。愛用しているのは、シュトゥットガルトにあるミネラルバート・ロイツェという温浴施設を視察した際にもらった大きめのもので、肩から掛けられるので便利だ。

この布袋は近頃、エコバッグと呼ばれている。本当にエコなのかどうか知らないが、私は別にエコだからと思って使っているわけではない。しかも布袋を持ち歩くことで、地球環境を守ろうとか、気候変動を引き起こす可能性のある二酸化炭素の排出を抑えようとか、環境への負荷を低減しようなどとはまったく思ってもいない。

私が布袋を一枚持ち歩くことで、地球規模の影響力を及ぼすことなどできるわけがない。そう言うと「一人一人の心がけが大切だと、あちこちで叫ばれている時代なのに…」と返されそうだ。私は、心がけで人の「意識」を変えることはできたとしても、その心がけがたくさん集まったところで特に何も変わらないと考えている。

実際、スーパーに行っても、コンビニエンスストアで何かを買っても、布袋を持っている人はいまだ皆無に近い。「地球に優しい」なんてことばは、私は恥ずかしくて普段はまったく口にしないのだが、例えば「環境に優しいエコバッグを持ち歩きましょう」と何年も前から言われ続けているのに、持っている人を見かけることは極めて少ない。

ところで、理由を説明するのが遅くなったが、私が布袋を持ち歩いている理由は、レジ袋が格好悪いからだ。レジ袋を持っていると何となく貧相な感じがするし、中身が何となく透けて見えるのも好きではない。男だからそんな細かなことを気にするのは変なのだが、見られることが嫌なのではなく、レジ袋を持って歩くという行為に抵抗があるのだ。

その2へ続きます。

丸と楕円と四角 その3 2010.08.28

その2からの続きです。

当時はカセットデッキにしろアンプにしろ、チューナーもすべてが四角いデザインが主流だった。丸いのは音量調整やチューナーの選局ダイヤルなど、回す必要のあるものだけだ。それはいまも変わらないのかもしれないが、家電製品の多くは、形状もスイッチ類もいつの間にか丸くなってきた。

私には私なりのデザイン感覚があると少し大袈裟に言わせてもらうと、その原点は、この頃に触れた四角いデザインへと遡るのではないかと思う。だから、丸みを帯びたデザインに対する私の中の抵抗感が大きいに違いない。丸いことが悪いわけではなく、私が受け入れられないだけなのだが、丸みを帯びたものとは距離を置きたくなる。

丸い形状のものでも,デザイン的に優れいているものはたくさんあると思う。でも無意味な丸さが氾濫し過ぎているように感じるのは私だけだろうか。先述したように、丸は女性向けなのだろうか。それは優しいデザインで使いやすいのだろうか。女性は丸いデザインを欲しているのだろうか。特に最近の洗濯機を見るといつも疑問に感じてしまう。

私は子供の頃に触れたものは、大人になってもどこか潜在意識の中に残っているのではないかと思っている。それはデザインだけでなく、触れたときの感触や材質感であり、大きく捉えるなら五感で感じられるものすべてかもしれない。そういった経験を経て、その人なりの感覚や感性、価値観ができ上がって行く。

私は丸いデザインに問題があると言いたいわけではないし、四角ければすべて良いと考えているわけでもない。車だって、丸い形状をしていても格好の良い工業製品はたくさんある。ただ、何となく丸にしておけば「デザイン的に丸く納まる」のではないかと思われる単純な解決方法を見ると、どうしても自分の感覚と比べてしまうのである。

自分でも保守的だと思う。もう少し世の中の変化を素直に受け入れるべきなのかもしれない。でもやっぱり自分が格好いいと思うものにこだわって行きたいし、いまも捨てずに持ち続けているラジカセを見たときに受けた衝撃を大切にして行きたい。それは私の直感的感覚にいまでも影響を与えているに違いないと思っている。

丸と楕円と四角 その2 2010.08.27

その1からの続きです。

何だか急にラジカセが気になった私は、「パイオニア ラジカセ ランナウェイ」で検索をしてみた。すると、肩にラジカセをかけた少年の後ろ姿を写した絵が目に飛び込んできた。確かに見た記憶がある。「20歳までに、僕はいくつ河を渡るだろうか」「パイオニアポータブルステレオ ランナウェイ」。私の記憶の引出しが一気に開いた。

あまりの懐かしさに、私は暑さを忘れて鳥肌が立った。「パイオニアのラジカセの研究」。こんなサイトをつくってくれている人がいるなんて本当に感激である。涙までは出ないけれど、思わず食い入るように見てしまった。SK-900も真ん中あたりにしっかり載っている。定価は107,000円。私の記憶に間違いはなかった。

それにしても、どのラジカセも実に格好が良い。確かに古さは感じられるけれど、言いようのない味がある。その中でもSK-900のデザインは極めて秀逸で、私はラジカセの最高傑作ではないかとさえ思う。中央に配置されたカセット部分と、横長に配置させた操作部分のまとめ方は実に見事で、私はこの開発者にお礼を言いたいくらいだ。

当時、エアチェックというのが流行っていて、ラジオから流れて来る曲をカセットテープに録音して聞いていた。ラジオ番組を録音して、繰り返し聞いたりもしていた。いまにして思えば、実に地味なことをやっていたものだ。そこで活躍したのがオーディオタイマーである。私はラジカセのデザインと予算に合うもの探した。そしてAKAIのDT-128に行き着いた。

ラジカセの上に置いたタイマーは大きさもデザインも程よくまとまっていて、どちらも私のお気に入りになった。横長の形状をしていて、スイッチ類はすべて四角で統一されている。ほんの一部に丸型が使われてるが、よく見ると丸形の小さなスイッチが、四角い掘り込みの中に納まっている。芸が細かい。金属部分と樹脂部分の配置も均衡も素晴らしい。

大学に入ってからコンパクトディスクプレーヤーを買った。これもAKAIである。音楽媒体がレコードからCDへと変わりつつあったときのCDプレーヤーは実に大きかった。いまでは絶対にデザインできないような化石のような家電製品である。これも検索してみたら「オーディオの足跡」というサイトにしっかり載っていた。私が買ったのはAKAIのCD-A30である。

これもスイッチ類はすべて四角でまとめられている。丸いのはヘッドフォンジャックだけだ。理路整然と並べられた四角いスイッチ類は、一見冷たく見えるし、洗練されているとは言いがたいが、実に良くまとまっていると思う。細かな細工はせずに、堂々と四角だけで勝負しているところが実に清々しく、いま見ても色褪せていないデザインだと思う。

その3へ続きます。

丸と楕円と四角 その1 2010.08.26

絵はがき、出窓と続いて、今日は形についてである。実は書き始めるまで、こんなに長くなるとは思ってもいなかった…。

私は楕円形があまり好きではない。楕円そのものの存在は認めるが、広告やポスターの中に描かれているものや、家電機器のスイッチ、あるいは自動販売機のボタンなどに楕円を見つけると、なぜ楕円でなければならないのか、その理由を激しく問いつめてみたいという衝動に駆られるのである。

日本では、いたるところで楕円形が使われていると私は思う。でも楕円形が悪いのではない。楕円形を使うことで、デザイン力のなさをごまかそうとする姿勢を何となく感じるからだ。あるいは、丸や四角は使ってしまったので、残りは楕円でも入れておこうかという安直な考えが裏にあるのではないかと勘ぐってしまったりする。

特に思うのは、主に世の中の一般女性が使う頻度が高いと思われる家電製品に、丸や楕円状のスイッチが多用されていることである。電子レンジ、洗濯機など、押ボタンが丸や楕円形状のものが実に多い。楕円は女性向きなのだろうか。あるいは女性的形状なのだろうか、女性は丸が好きなのか、私は楕円を見るといつもそんなことを考える。

何のことはない、私は丸よりも四角が好きなのだと思う。もちろん丸くなくてはいけないものはたくさんある。たとえば小銭。これが四角だったら大変だ。だから丸でなければならないものまで否定しているわけではない。ただ、楕円となると、私にとっては中途半端な感じが否めない。

そこでふと、手元にある電気製品を見てみた。私の手元には30年近く前に買ったラジカセがある。ラジカセなんて、もう言わないのかもしれないが、それが一番わかりやすいと思う。そう、1970年代はラジカセの世代だった。高校生のとき、アルバイトをして溜めたお金で買った想い出のラジカセが、まだここに一台残っている。

ここへ来て話は激しく脱線する。私がどうしても欲しかったのが、パイオニアが出していたランナウェイのSKシリーズだ。その最上機種がSK−900で、定価で107,000円もした。私は電気店にかけあって9万円にしてもらった。高校生にとっての9万円のラジカセは、とてつもなく大きな買物だった。いやいまだって、そんな額は簡単には出せないのだが…。

その2へ続きます。

出窓 2010.08.25

私がその存在を疑問に思っているもののひとつに「出窓」がある。個人住宅でも使われているが、むしろ、アパートや集合住宅で見かけることが多いように思う。この出窓を見かけると気になって仕方がない。なぜなら、窓を外に張り出させることは、わざわざ熱負荷を取りに行くようなものだからだ。

出窓には夏の強い日射が当たるし、熱も余計に入って来る。ガラス面が壁より外に出ているのだから当たり前だろう。この猛暑を考えればわかるように、暑い外気に飛び出している出窓は太陽熱集熱器のようなものだ。日射を防ぐためにカーテンが必要だが、カーテンをかけても大した効果は望めない。

出窓は普通の窓に比べてガラスの面積が大きいから、冬になると今度は冷たい外気が侵入しやすい。もちろん日射が当たれば少しは太陽の恩恵を受けられるかもしれないが、大抵の窓は単板ガラスだから、結露する可能性が高いし、寒い日はカーテンを閉めることになる。つまり出窓はいつもカーテンを閉めないと使えない開口部なのだ。

とはいえ、出窓は狭い空間を少しでも広く感じられるようにする効果はあるだろう。出窓が日本のどこからやって来たかは知らないが、いつの間にか広く浸透してしまっている背景には、それが大きいかもしれない。あとは普通の窓よりも何となく贅沢に見えるるし、花などを飾ったら、お洒落な空間になると一般的に思われている可能性も有りそうだ。

出窓には、そんな期待が寄せられているはずなのだが、実際に出窓のあるお宅を見ると、実情はそうでもない気がするのは私だけだろうか。実際、出窓にカーテンを掛けて、さらにその外側にも簾(すだれ)を下ろしているお宅を見たとき、よぽど暑いのだろうと想像して私は同情してしまった。

室内に入って来る負荷をわざわざ大きくするための出窓をつけるくらいなら、断熱性の高い窓にして、日射もしっかり遮ることのできる外付けの日除けを設ける方が遥かに重要だと私は思う。それはもしかしたら出窓の設置工事よりも高いかもしれない。でもそれは建築の開口部を考える上での本質ではないだろうか。

出窓が良いと思って自宅につけた人、出窓の製造に関係している人、出窓のある集合住宅を設計している人や施工にかかわっている人には極めて失礼な内容なのだが、出窓を見ると、いろいろと考えてしまうのである。

絵はがき 2010.08.24

日本では絵はがきを売っているところがとても少ない。ドイツでは、観光地はもちろんのこと、郵便局や百貨店、街の文房具屋、ドイツ版100円均一の「オイロ(ユーロ)ショップ」には必ずといって良いほど、その街の絵はがきが置いてある。他にも洒落たデザインのはがきがあるので、ちょっとした挨拶状として使うには実に便利である。

それに引き換え、日本の絵はがき事情はまったくもってなっていない。どんな観光地に行っても、大抵がお粗末なものばかりで、一筆書いて出したくなるようなデザイン性の優れた絵はがきを見つけるのは極めて難しい。しかも被写体の写し方や、図枠の構成も目を覆いたくなるようなのが実に多い。そんな絵はがきは買う気さえ起きない。

中には良くデザインされたものもあるが、ドイツの友人に送りたくなるような絵はがきは、美術館や博物館に行かないと手に入らないし、ましてや東京の風景を奇麗に写し出したものは少ない。東京タワーに浅草、新宿の高層ビル、相撲と寿司、浮世絵。すべてが日本の伝統でありながら、絵はがきの中の被写体はどれもが不思議と陳腐なのだ。

例えば、季節が感じられるような、はがきや便せんなどは、誕生日カードなどを置いている大きな文房具店に行けば売っているが、その辺の店では気軽に買うことができない。私が真剣に探していないから見つからないだけなのかもしれないが、コンビニエンスストアの文具のところに何枚かあっても良さそうなものだ。

先日、郵便局で「かもめ〜る」を10枚買った。足りなくなったので、買い足そうと思ったら売り切れである。それ以外は官製はがきしかない。これもまた妙に味気ない。何かの懸賞に応募するときならまだしも、個人的に使いたくなるようなものではない。しかもいまどき「官製」という名称がついているのも気に入らない。

もはや自分でつくった方が早そうだ。お礼専用のはがきを常備しておけば、適当な絵はがきがないと言って悩む必要もなくなるだろう。あるいは撮り溜めた写真を印刷して送るのも一案だ。これであれば個性も季節感も出せる。文句ばかり言ってないで、気に入った絵はがきを自分でつくってみようと急に思い立った。あとは実行に移すのみだ。

過ぎ去りし残暑の月曜 2010.08.23

今朝も7時から1500mを泳ぎ、8時半過ぎから作業を開始する。10時半に丸の内で打合せがあるので、その資料をまとめているうちに10時になってしまう。東京駅までは普通なら徒歩でも行ける距離だが、この暑さの中を15分以上も歩くと汗だくになってしまうので地下鉄で移動する。

丸の内へ打合せに行くというだけで、何だか自分が偉くなった気がしてしまうのは何故だろう。実に単純である。始めてお会いする方との打合せを終えたあと、昼食も丸の内で済ませて、最近いつもお世話になっている、すわ製作所へ向かう。その後、22時半頃まで作業。

済ませたいと思っていたことがまたできずに暑い夏の一日が今日も終わった。