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還流独歩

2009年9月から「環流独歩-かんりゅうどっぽ」という標題で、日々の活動や、普段、思い描いていることを書き始めました。これは、JIA/日本建築家協会東海支部が毎月発行している会報誌「ARCHITECT」に寄稿させて頂いたときに、自ら付けた標題をそのまま使用しています。

移動などが多いため、抜けているところや、日付を遡っての更新も多々あります。また、どうしても誤字脱字や文章の詰めの甘さが出ることも多く、後日、読み返して気がついた箇所は、適宜、加筆訂正等を行っていますので、その旨、どうぞご容赦下さい。
 
加筆訂正:2012年1月1日(土)

冬本番で北海道 2012.02.12

昨日の夕方、18時ちょうどの便で千歳に飛ぶ。もう少し早めの時間にしようかと思ったが、東京で済ませたいことがたくさん残っているので、遅めの便を予約した。そういえば、昨日は祝日だった。でも、土曜日に重なっているので、あまり有難くはない感じがする。そのせいもあるのが、羽田空港も混雑しているようには見えなかった。

空席がかなり目立つ飛行機は定刻に飛び、遅れることなく千歳空港に着いた。気温は氷点下6℃である。外に出れば確かに寒いが、飛行機の中で身体が温まっていることもあって、それほどでもない感じである。今年は、岩見沢(いわみざわ)が大雪で、何やら大変なことになっているらしい。でも、千歳空港周辺は、そんな感じはまったくない。

北海道の豪雪地帯というと、その名が真っ先に挙るのは「倶知安(くっちゃん)」であろう。隣町の「ニセコ」を含めても良いかもしれない。それと併せて大雪に見舞われるのが「岩見沢」である。札幌からわずか40kmほどしか離れていないのに、岩見沢には雪が良く降るのである。その理由は「石狩湾低気圧」と呼ばれる局地的な気候が関係している。

郷里の北に位置する栗山町(くりやまちょう)や、東に接する由仁町(ゆにちょう)は雪がそれほど降らないが、いまは岩見沢と合併してしまった旧栗沢町(くりさわちょう)のあたりまで行くと、なぜか雪が多くなるのである。道路脇に積まれた雪の高さを見ても、それが如実にわかる。

ここ十数年、雪が少なくなったと言われて来たけれど、東北の北部も大雪に見舞われているようだし、例年に比べて気温も低いようだ。かなり以前から地球の温暖化が叫ばれ、各地の氷河が後退しているといったことが指摘されているが、もしかしたら、温暖化というより、徐々に寒暖の差が大きくなっているのではないかとも考えられる。

これまで、二酸化炭素の排出のことや気候変動については、ここではほとんど触れて来なかった。その理由は、自分では具体的な証明はできないにもかかわらず、直感的で感覚的な意見を持っているからだ。それについては、誤解を受ける可能性が大いにあるから、あまり書くつもりはないけれど、いずれ自分の立場を明らかにする必要があるのではないかと、北国へ来て、そう感じてしまうのである。

笑顔の力 その6 2012.02.11

数日後、名刺を受け取りに行くと、いままで同じように、奇麗な状態で仕上がっていた。料金を支払い、領収書を出してもらう。私は最後に「またお願いしますね」と言って出口に向かった。そのときの彼女は少しはにかんだような笑顔を見せた。私はその女性のことがやけに気になっているわけではなく、どうしても以前の女性と比較してしまうこともあって、今日は御礼の一言を言い残しておきたかっただけなのだ。だけど、そんな自分がとても面倒臭い人間に感じられてしまったりもする。

人間というのは不思議なもので、相手によって、自分の態度が大きく変わってしまうことが良くある。それは社内での上下関係や、会う相手との身分の違いといったことが関係することも多いけれど、それも含めて、気持が落ち着く相手と、そうでない人がいたりする。自分が素直になって、相手のことも大切に考えられるときもあれば、なぜかそうはならないときもたくさんあったりする。誰にも苦手な相手というものがあるようだ。

そういったことは、会う頻度とか、長さによって変わって来るかというと、そうでもないことが大半ではないかと思う。あまり会いたくない人といると、気持が萎縮してしまい、本当の自分が出せなくなってしまうのかもしれない。それがまた逆に相手に伝わってしまい、負の連鎖が続いて行く可能性もある。会っていて気持が良い人といると、そのまた逆で、素の自分が出せるし、それを受け入れてくれるから、また気分が楽になるのだろうか。

名刺の注文の話で、こんなに長く書くことになろうとは自分でもまったく思いもよらなかった。よほど根に持っているのだと思われてしまいそうだが、そんなことは決してない。何度も書いたが、こういったことは、むしろ自分自身に返って来ることが多いものだ。まさに、「人の振り見て…」だと思う。ただ、それが良い方向に作用しているかというと自分でもあまり自信がないことも確かだ。人との付き合いというのは難しいものである。

今回も長々と書き綴ってしまったたけれど、これは自分への手紙でもある。この文章が、人にどのように受け止められるかわからないから、こんなことを書くのは良くないのかもしれないと、何度も思ったけれど、吉田さんが指摘することは極めて正しいし、自分もできる限り心掛けて行きたいと思っている。そして、確かに語学の上達も大切なことではあるが、笑顔というのは、それ以上の何かをもたらしてくれることが大いにあるはずだ。ことばは通じなくても、笑顔は心を通わせる力を持っていると思うのである。

笑顔の力 その5 2012.02.10

これを読んで、もしかしたら不快に感じられる方がいらっしゃるかもしれない。私もここに書き込むことを少しためらったが、自分への反省の意味も込めて、綴っておこうと思った。それと同時に、某会社の社長が、ほぼ毎日のように送ってくれる「365日語録」を読み返してみた。そこには、いつも頷かされる「今日の一言」が書かれている。調べてみたら、「笑顔」に関する語録が三つ見つかった。折角の機会なので、ここで引用させて頂くことにする。

▼あきない総合研究所:吉田雅紀の365日語録
・笑顔には相手を笑顔にする力がある。
・国際人になる為には語学の前に笑顔を学べ。
・笑顔はスキル。スキルとは訓練して身に付く能力である。

吉田さんの言う通りだろう。私もそう思う。お店の人の愛想がないことなど、ドイツで慣れ切っているから、どのような対応をされようが、もはや気にもならないことが多いのだが、ドイツの人たちが時折見せる本気の笑顔というのは、男女を問わず、とても魅力的であったりする。それは日本人だって同じだ。だから、ほんの少しの微笑みや明るい応対が、互いの関係をより良くすることがあると私は思う。

これまで書いて来たことは、あくまでも私の意見だから、人に押し付けるつもりはない。もしかしたら大いなる偏見も含まれているかもしれない。でもやっぱり、気持の良い対応を受けたいと願うことは、それほど間違ったことではないないし、自分も逆の立場になれば、そうありたいと思う。そのために、むやみに笑顔をつくる必要などないけれど、男女問わず、笑顔には、細かなことをおおらかに包み込んでしまう魅力があるはずだ。

話は戻って、名刺を注文した翌日に、印刷会社の女性から携帯電話に連絡があった。予定通り仕上がっていて、色の具合も問題ないという電話だった。当然の対応かもしれないが、わざわざ連絡をくれるとは有難い話である。それにしても、平日とはいえ、注文した翌日にでき上がるというのは、あまりにも早過ぎる気もするのだが、遅いよりは良いのだろう。私は「早めに取りに行きます」と言って電話を切った。これでまた気分が軽くなった。

笑顔の力 その4 2012.02.09

そんなことを体験した私は、意を決して、例の苦手な女性がいた印刷会社へと向かうことにした。4年振りになるだろうか。今回は、その彼女がいるかどうかの確認がしたいだけなので、料金表だけをもらうだけにしようと決めて出かけた。実に小心者である。歩いて5分ほどの距離にあるその印刷会社の自動扉を開けて中に入ると、そのときの女性はいなかった。代わりに、初めて見かける女性が座っていた。私は「すみません。カタログか、料金表を頂きたいのですが…」と伝えた。

「最近、どちらも改訂したばかりで、カタログと料金表が別々になっています」。見ると、どちらも厚さが8mmほどあって、見るからに重そうである。私が「カタログだけ頂いて行きます」と言うと、「どういったご用件でしょうか。必要なところの料金表をコピーしてお渡しします」と訊かれたので、「名刺の料金表をお願いします」と答えた。本当はどちらも要らなかったのだが、その女性は、丁寧にも、わざわざカラーコピーをして持って来てくれた。ここで謝っておこう。ごめんなさい。

私が苦手としていた女性は、もしかしたら社内のどこかにいるのかもしれないが、おそらく、初めてお会いした彼女が、いまの受付担当なのだろう。対応はいたって普通だった。適度に明るくて、誠意に対応しようとする感じも良かったから、何の違和感も感じなかった。私は面接官ではないし、どこかの会社の人事担当ではないから、常にそんなことを意識して人に会っているわけではない。客としての自分も、逆に大いに見られているということも良く知っているつもりだ。

今回は時間がなく、名刺の印刷をお願いすることはできなかったが、またここに依頼することに決めた。そんな風に書くと、何だかやけに偉そうで、難しい人間のように捉えられるかもしれない。あるいはかなり変な人だと思われかねない危険性は大いにあるとは思うが、私と同じような気持を抱く人は、決して少なくないと思うのだ。どこかで何かを買う、あるいは今回のように何かを依頼するときなど、応対する人の人柄で大きく違って来ることはないだろうか。

そして、ここに書いたことは、すべて自分自身に返って来る。いま書いたように、自分は見る側だと思っていたら大間違いだ。同じように見られている。だから、苦手だった窓口の女性の態度は、実は私が原因だったのかもしれないと、これを書きながら反省した。「売り言葉と買い言葉」と言われるように、人との相性、あるいは応対の仕方というのは、自分の方がつくり出しているのかもしれないとさえ思う。

笑顔の力 その3 2012.02.08

「見本は出せますけど…」。素っ気ない言い方だった。もし仮に「仮印刷をお見せできますので、それで検討して頂くこともできますよ」と言ってもらえたなら、少しは違っていたのかもしれない。その女性と、わずか1分ほど話しただけで、この会社に名刺の印刷をお願いするのは止めることにした。私は「わかりました。考えてみます」と言って電話を切った。別にどこかのコールセンターのような丁寧さなど期待してはいない。でも、何だか丁寧さに欠けた応対だった。

電話は会社の顔である。それくらい電話の応対で印象が変わるものなのだ。その昔、勤めていた会社の後輩の話を引き合いに出すのは甚だ失礼だが、敢えて書かせてもらおう。その彼は、電話がかかって来ると、まるで怒っているかのように会社名を言っていた。本人は元気に出ていると感じているようで、そんな風にはまったく思っていないはずだ。でも、周りの人にはそう聞こえてしまう。私は注意した方が良いかと迷ったが、できないままであった。

ある日、同じ部署の先輩が、こんなことを言っているの聞いた。「この間、打合せで会った人に訊かれたんだよ。いつも怒ったように電話に出る人って誰って…。お前だろ!」。そう指摘された後輩は「え? 僕ですか…」という感じで苦笑いを浮かべていた。そうしたら、周囲から突っ込みが次々に入った。「電話に出るとき、いつも怒ってるよ」。「あと、切るときもガシャッとやってるから気をつけな」。みんな気がついていたのだ。でも誰も言わなかった。

他の会社の人から指摘されるというのは、よほどのことだし、恥ずかしい話でもある。長年のおつきあいがあって、冗談が通じるくらいの仲である会社だからこそ、敢えて言ってもらえたのかもしれないが、そんな注意をもらう前に、社内の人がしっかりと教えてあげるべきだった。それに気がつきながらも言えなかった責任は私にもあった。電話の応対一つで、相手の会社の様子が見て取れることが良くある。相手の表情が見えないからこそ、電話というのは怖いのだ。

話は戻って、名刺の印刷をお願いしようと思って電話をかけたその印刷会社には失礼だが、こんなに近くにあるのに、何かを依頼することは、おそらくないだろう。翻って、自分はどうなのか考えてみた。自分の電話応対が、どのように受け止められているのかを知ることは難しい。聞くところによると、電話に出るときには、普段の会話の声よりも、少し高い声を出した方が良いらしい。暗い声よりも明るい方が良いに決まっている。果たしてそれができているだろうか。

笑顔の力 その2 2012.02.07

何度かのやり取りを通じてわかったことは、安い色刷りの場合、希望する色をデータ上でいくら指定しても、実際の仕上がりの段階では、その色を忠実に再現することができないということだった。しかも紙質によっても色の出具合が大きく異なることもわかった。それで、色にこだわるのは諦めた。ただ、この店で注文するのは嫌になったので、同じ印刷会社の別の店舗に行くことにした。歩くと20分くらいだから、それほど遠くはないが、面倒ではあった。

そこへ行き、これまでの印刷の経緯と私の要望を少し説明した。この店舗の方は親切で、もしかしたら、データの変更処理という作業を行なえば、希望する色に近づけられるかもしれないと教えてくれた。ただし、追加料金が必要になるのだが、その金額はわずか500円である。試しに色の指定をして、100枚注文してみたら、いままでで一番奇麗な色になって印刷されてきた。そこですぐに200枚を追加注文した。それもほぼ希望通りの仕上がりだった。あの悩みは一体なんだったのだろう。

それ以来、名刺の印刷はそこでお願いしていたのだが、昨年の夏に行ってみると店舗がなかった。インターネットで調べてみたら、どうやらそこは閉鎖してしまったらしい。徐々に減りつつある名刺を見ながら、追加の印刷をどうするか考えた。例の苦手な女性がいる店舗へ久しぶりに行ってみるか…。また同じ人が出て来たらどうしようか…。心揺れる私。そんなところへ「名刺の印刷賜ります」というチラシが郵便受けに入っているのを見つけた。

その印刷会社は、本当にすぐ近くだし、道路脇には「名刺印刷」と書かれた看板が置かれているので、直接訪問して訊いてみようかとずっと思っていた。でも、ガラスに視線防止用のシートのようなものが貼ってあるので、中の様子がよく見えず、何だか入りづらい雰囲気がある。インターネットで調べてみたら、無料の電話があるというので、まずは、そこにかけてみた。何度か呼び出し音が鳴ったあと、女性が出た。会社名を言う声が何となくぞんざいに聞こえた。

私はお願いしたい名刺の印刷について冷静に話した。でも、返って来る返事が、何だかとても冷たく聞こえるのだ。丁寧さがないというか、忙しいのだから早く電話を切りたいような、そんな感じを受けてしまう。向こうの状況はわからないけれど、作業中の画面に向かいながら、私の電話に応対しているようにも聞こえるし、声に妙な苛(いら)つき感も含まれている気がする。電話というのは恐ろしいもので、声だけでも相手の雰囲気がわかってしまうものなのだ。

笑顔の力 その1 2012.02.06

名刺が残り少なくなって来たので、新しく刷り直さなければならない。去年の秋頃に、いつもお願いしていた印刷会社に行ってみたら、いつの間にか移転してしまっていた。どうやら、都内にいくつかある店舗が集約されてしまったようだ。実は、その店舗よりもかなり近いところに、もう一店舗あるのだが、私はそこの窓口の女性が、どうしても苦手で、距離にして二駅近くある別の店舗まで、わざわざ足を運んで、そこで名刺を頼んでいたのである。

一番近くて便利なところにある店舗の窓口の女性が苦手だなどと書くと、そんなことなど気にしない性格ではないかと笑われてしまうかもしれないが、見かけに寄らず意外と繊細なのである。苦手な理由はいくつかあったが、その一つは、まったく笑顔を見せないことだった。別に微笑みを投げかけて欲しいとは思わない。でも、客が入って来たら「いらっしゃいませ」と言うのと同時に、多少なりとも明るい表情をすべきではないかと思う。

いま書いていて気づいたのだが、私は彼女の「笑顔」が見たかったのではなく、適度に明るく応対して欲しかっただけのことなのだ。苦手だというもう一つの理由は、私がいろいろとお願いすることに対して、面倒くさそうな表情をするからだった。彼女はそうは思っていないかもしれないけれど、少なくとも私にはそう見えた。私が「このようにはできませんか…」と話しかけると、「面倒なことを言う人だなあ」という表情をして、視線をずらすのである。

私の名刺は青地に白抜きである。事務所を開設したときに、いろいろと考えて、このデザインに行き着いたのだが、最初の頃、背景の青色がうまく出なくて苦労した。そして、自分が望む色が出るまで、何度も印刷してもらった。その点では、印刷会社の人に面倒はかけたが、その分の名刺代はもちろん支払っているから、取り立てて理不尽な要求をしていたわけではないと思う。むしろ、何度も注文してくれるのだから、ある意味、有難い客でもある。

どうすれば希望の色が出せるものなのか、私は何度か訊いた。別にしつこくお願いしたわけではなく、何か良い方法はないか探し出したかっただけなのだ。「できなくはないと思うのですが…。少々お待ち下さい…」と言って、億劫そうに席から立ち上がって、つい立ての陰へ消えて行く彼女を見ると、何だかこちらまで憂鬱になって来て、この店に来て名刺を注文するのが苦痛に感じられるようになった。多分、彼女も同じ気持だったかもしれない。

設備と建築の形 その2 2012.02.05

建築のデザインは、基本的には意匠設計者が担うものだ。でもそこに設備設計の合理的な思考が加わると、家の中の水廻りの位置や、屋根の形まで左右することになる。あるいは建物そのものの形態にまで関わることになるかもしれない。設備設計者は、意匠設計者から与えられた図面をもとに設計を進めて行くけれども、「設備的に考えたら、むしろこうした方が良いのではないか」といった意見を密かに持っている設計者は決して少なくないと思う。建築は合理性だけでは決まらないけれど、設備の視点から意匠設計を見直すことで、設計を昇華させることができるはずだ。

設備設計者は、建物の中の給排水や空調設備だけを行なうのではなく、その建物がどのように機能するのかというところまで踏み込んだ議論を積極的に行うべきであろう。いや、そうしている人はたくさんいるはずだ。それは建物の環境を考えることでもある。その視点に立てば、こういった作業は「設備設計」ではなく、「環境設計」と呼べるのかもしれない。それは建物の中の設備だけに留まらず、先述のように、建築の形態を左右し、それを取り巻く環境といった大きな視点をも加わって来るような気がするのである。これまで環境設計という名称に、多少の違和感があったのだが、自分でも何だか少し明快になってきた気がする。

雨水の排水径路が最も短く、工事事費も抑えられるという理由から、屋根の形状を決める意匠設計者は、おそらくいないのではないかと思うけれど、実は、設備的な観点から決めた形状が最も素直で美しいデザインだとしたら、これは意匠設計者にとって、かなり皮肉なことになるだろう。意匠と設備は相容れない面が多々あることも事実だが、互いの分野を尊重し合い、意見や情報を頻繁にやり取りできる環境が築けるとすれば、意匠的にも設備的にも、均整のとれた建築が出来ると思う。設備は見えないけれど、見えないからこそ美しくまとめたいと思ったりもする。それが意匠と融合することなのかもしれない。

いまも書いたけれど、設備設計ではなく、環境設計という視点で建築に取り組めば、新たな提案がたくさん出せそうな気が段々として来ているのである。

設備と建築の形 その1 2012.02.04

いま設計協力を行なっている物件の図面と工事見積書を見た。あたり前のことだが、その中の設備工事の部分には、上水や下水、エアコンの冷媒管や凝縮水を流す配管の長さと、それぞれのメートル単価が書かれていて、各項目ごとに、その工事費が見積もられている。配管の他にも、屋外の地面に埋設する排水枡が7個、雨水の集水枡が8個と記入されている。これらのすべてをなくすことは無理だけれども、配管を短くし、枡の数を減らすことができるような設計変更を行なえば、その分だけ工事費は確実に安くなる。

これが何を意味するかというと、良く言われるように、水廻りはなるべくまとめて、可能であれば上下階も同じような位置に配置すべきであることを示している。そうすれば、排水は建物の一つの側だけで済む場合が多く、排水管の長さも枡の数も減らすことができる。例えば、排水が住宅の南北や東西といった離れた側に別々にあると、その分だけ排水径路は長くなから、それに比例して、工事費も。建築の設計は、それだけを考えて進めるわけではないが、実はとても重要な視点だと思う。

同じように、屋根から流れ落ちる雨水を考えてみる。切り妻屋根の場合、雨樋は屋根面が見える平入(ひらいり)側に必要になる。それを受けて流す雨水配管も同様に両側に設けなければならない。一方、片流れの屋根の場合だと、雨樋が必要になるのは、一つの側だけだし、雨水排水管も同じだ。つまり、切妻屋根と、片流れ屋根の雨水排水設備工事費を比較すると、極端な話、倍の差が生じることになる。私は切妻や寄棟屋根を否定しているわけではない。単に、雨樋の長さが短いほど、雨水排水設備に必要な工事費が安くなるということを指摘したいのである。

住宅にとって、屋根の形は非常に重要である。設計事務所は、どのような屋根をかけるべきか模型を作成して、いくつもの事例を検討する。勾配はこの程度で、向きはこちらの方が奇麗に見えるといったことを少しずつ詰めて行き、そして最終的な決定段階では、間違いなくそういった意匠的な面が大きく関係している。だから、屋根の形状に排水設備という視点が関わることは、平面的に大きな屋根が必要な建物を除いて、ほとんどないといって良いだろう。しかし、予算が非常に厳しい住宅の場合、設備的な視点も加えて屋根の形状を考えてみると、設備を優先したデザインというものが生まれて来たりする。
 
加筆訂正:2012年2月20日(月)

雨樋再考 その2 2012.02.03

その一方で、雨樋があるために、排水設備が別途必要になってくる。雨を敷地の外に適切に流すためには、地面の中に配管を埋めて、道路の排水本管に接続しなければならない。あるいは宅地内排水する場合でも、雨樋のあるところは、その数だけ浸透枡が必要になる。雨水と汚水を合流させて排水できる地域だと、それほど問題はないのかもしれないが、設備というのは不思議なもので、ある一つのものを設けると、それに付随した別のものが必要になって来る。エアコンの室内機と室外機という関係を例に出すと短絡的に聞こえるかもしれないが、要は、そんな感じだろうか。

東京のような密集地では、雨水を下水に接続しないと、雨が少し強く降っただけで、敷地内は雨水で溢れてしまう可能性は高いし、隣地に流れ込んでしまうところも多いだろう。特に傾斜地などでは、雨水を適切に排水しないと地盤が崩れる恐れも出て来るから、雨樋を通じて、雨水を流し去ることはとても重要なことだ。その反面、目の前に降って来る雨は見えても、屋根に降った雨水は、人目に触れることなく雨樋から下水ヘと流れて行く。いまや、それがあたり前であり、雨水は目の前から早くなくなって欲しい存在になってしまったのだろうか。

屋根からの雨だれを見たいというわけではないのだが、特に雨が少ない年に渇水が問題になると、雨樋から勝手に流れて行ってしまう雨水の存在が、とても気になってしまう。普段は遠い水源の水量などを気にかけることもなく、水道水を使い、そして雨水を下水に流しておきながら、一旦、渇水が始まると、その水位を心配するというのは、自分も含めて、実に我が侭なことなのではないかと思えて来る。雨樋という、一見、地味な存在にも思える雨水排水設備を見直すことで、普段は気にも留めないようなことが見えて来たりするかもしれないと感じるのである。