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2009年9月から「環流独歩-かんりゅうどっぽ」という標題で、日々の活動や、普段、思い描いていることを書き始めました。これは、JIA/日本建築家協会東海支部が毎月発行している会報誌「ARCHITECT」に寄稿させて頂いたときに、自ら付けた標題をそのまま使用しています。

移動などが多いため、抜けているところや、日付を遡っての更新も多々あります。また、どうしても誤字脱字や文章の詰めの甘さが出ることも多く、後日、読み返して気がついた箇所は、適宜、加筆訂正等を行っていますので、その旨、どうぞご容赦下さい。
 
加筆訂正:2012年1月1日(土)

冬至で世界消滅 その2 2012.12.21

そんなこと、ここで危惧していても仕方がないのだけれど、今日で世界が終わると、さかんに取り沙汰されているから、自分なりに考えただけだ。そして明日から、石油も石炭も天然ガスもウランも供給されず、電気もつくれないという状況なったら、我々の生活は一気に破綻するだろう。それは間違いない。

移動は自分の足を頼りにする以外にないから、徒歩圏内までしか動けない。スーパーマーケットには食料は届かず、飲食店も営業ができないし、病院も機能しない。土地がたくさんあって、自給自足のような生活をしている人以外は、どこかで餓死してしまうという状況に絶対に陥るはずだ。変な風には考えたくはないが、確実にそうなると思う。

これから十数年の間に、そんな状況になるとは考え難い。でもいつかやって来るはずだ。新年が近いから、もっと前向きなことを書きたいが、周りでは、滅亡の日だと騒ぎ立てるから、自分の頭で考えてみた。そして何も起きなかった。昨日と同じような今日があり、今日と同じような明日やって来るのは、一体、いつまで続くのだろうか。

冬至で世界消滅 その1 2012.12.20

巷では、12月21日(金)に地球が滅亡するというような噂が流れている。「そんなことを信じているのか?」と横槍が入りそうだが、地球規模での破滅はないにしても、広範囲の地震がまたどこかで起きるとか、あるいは世界を震撼させるような事件が起きないとは言い切れないかもしれないとは思った。

そして少し考えた。おそらくこの地球全体が大変に混乱した状況下に置かれるとしたら、おそらく化石燃料の枯渇が、本当に現実的になったときではないかということである。それがいつになるかはわからない。でも、いつの日か、確実にやって来るはずだ。

その頃には、科学技術がさらに発展し、化石燃料に頼らない生活が実現するという希望的観測もあるとは思うが、本当に、そんな時代がやって来るのだろうかという疑問があってもおかしくはない。太陽光発電や風力発電、その他、自然の力を上手く利用した技術を終結すれば、もしかしたら、すべて解決するかもしれない。

決して否定的なことを言うつもりはないが、世界中にある無数の車を動かし、電車を走らせ、そして飛行機を飛ばし、建物においては、換気や冷暖房設備を稼働させ、人工照明を点灯可能にしつつ、地球には負荷をかけないような代替技術や資源が、はたして今後、現れるのだろうか。

お土産の運命 2012.12.19

どこかの本で読んだような記憶があるのだが、お土産というのは、人にあげた時点で、その役目を終えるのだそうだ。渡す側は、そのお土産を、どのようにされようとも気にしてはいけないらしい。つまり、受取った側に権利が移るわけだから、お土産の運命は受領側に一任されるのである。

食べ物なら胃袋の中に消えてしまうし、あまり口に合わなければ、捨ててしまうこともあるだろう。問題は「それ以外のもの」である。そういったお土産をもらったりすると、状況は一変する。たいして使いもしないのに、いつまでも大切に持ち続けることは、逆に、お土産に対しても失礼ではないかというのは変な考えであろうか。

「捨てるのはもったいないから」とか、「いつもお世話になっている誰々さんから頂いたものだから…」といったことが積み重なって行くと、捨てられなくなってしまう。まるで、結婚式で頂いた引き出物のように、使われないまま、何年も使わずじまいというようなことは、自分も含めて良くありがちな気がする。

改めて考えるまでもなく、確かにそんな面はあるのかもしれないと、最近になって強く思う。そして、今年もお掃除の季節がやって来た。この一週間、収集日に出されるごみの量も何だか増えている気がする。ものが減らなくて困っているとか、場所がないという前に、まずは捨てることから始めよう。

身軽になればなるほど、新しいことと出会える気がするのである。

お歳暮 2012.12.18

日本には、お土産という文化がある。諸外国でも、プレゼントを贈り合う風習があるけれど、お中元や、お歳暮といった慣習は、日本独特ではないだろうか。日頃からお世話になっている方に、こういった形で御礼の気持を届けるというのは、素敵なことだとは思う。

その一方で、誰かが言っているように、賄賂(わいろ)の一種だと言えなくもない。かなり穿った見方になるから誤解を受けないようにしたいが、「これからも一つ宜しく…」という台詞が込められているわけだから、確かにそんな面を持合わせていなくもない。

この時期になると、お歳暮というのは良い風習だなと思うのと同時に、そんな斜に構えた捉え方をしてしまったりするのである。

師走の雨 2012.12.17

師走の曇り空が雨に変わった。傘が必要なのかわからないくらいの、何だかだらしない降り方である。以前にも書いたかもしれないが、秋口から、たまにこんなような霧雨に近い雨が降る日があるように思う。腫れの日もあれば、雨の日もあるから、当然といえばそれまでだが、何だか少し降り方が中途半端な気もするのである。

雨は午後になって止んだ。でも路面は、まだ濡れたままである。師走のしっとりとした雨も悪くないのかもしれない。

車内飲食 その2 2012.12.16

しかし、車内で何かを食べるという光景は、観光地に向かうような電車や、あるいは新幹線であれば、状況は一変する。駅弁を広げ、麦酒やお酒を飲むのは、むしろ普通だし、「いや、そうでなければりなりませんっ!」とまで言ってしまいそうである。実際、私も同じだからだ。ただ、それが都内を走る地下鉄となるとなぜか違う。無論、駅弁を食べている人はいないけれど、おにぎりとか、サンドウィッチなどを口にしている人は、たまに見かける。

それが何となく気になるのは、おそらく、置かれている環境が、ものを食べるという行為にそぐわないからだろう。特に地下鉄は駅の間隔が近いし、人の出入りも激しい。席も通路を挟んだ対面式がほとんどである。2席が向かい合う4席とか、すべての席が進行方向に向いていれば、状況は少し違って来るかもしれないが、仮にそうだとしても、山手線や京浜東北線や私鉄の中で、お弁当を広げたりできる雰囲気はないような気がする。

ということで、話はまったくまとまらないのだが、どこかに旅行に出るときに、車内でお弁当を食べるというのは旅の楽しみの一つでもある。あるいは、出張を終えて、帰りの新幹線でビールを飲む。とても正しい行動だと思う。そういえば、ドイツには駅弁というものは売ってない。ICE新幹線の中でも、ビールを飲んでいる人も少ない気がする。今度、確かめてみよう。

車内飲食 その1 2012.12.15

最近、少しだけ気になることがある。何と言えば良いのだろうか、特別、不快でもないのだけれど、その光景を目にすると、そんなことに気を留めてしまう自分の方が、逆に神経質すぎるのかという思いがこみ上げて来たりもして、やや複雑な気持ちになったりする。何かというと、以前にも増して、電車内でものを食べている人をよく見かける気がすることである。

と言いつつも、比較対象としての「以前」というのは、一体、いつのことなのか自分でも良くわからないし、実際、そういう人が本当に増えているのかもわからない。しかも、電車に乗るたびに見かけるわけではないから、ただ何となくとしか言えないのが実に無責任なのだが、車中で何かを食べている人を見ると、そんな感じを受けてしまったりする。 いや私自身も、中学生か高校生、あるいは学生の頃は、同じようにしていたかもしれない。

そういう私は、いま、こうしてPCを開き、メールや文章を書き、図面に手直しを加え、写真の整理をしたりしているから、普通に席に座っているわけではない。携帯を見たりしている人も山ほどいる。でも、何かを食べるという行為とは、やはり違うのではないかと思う。それは私の自己中心的な考えかもしれないから、もしかしたら私を見て、不快に思う人も中に入るのかもしれないけれど…。

師走カレンダー 2012.12.14

最近、カレンダーを持って歩いている人をよく見かける。得意先などへ年末の挨拶に伺うのだろう。頂いたカレンダーを使うかどうかは別として、良い習慣なのではないかと思う。中には捨てられてしまうのも多いだろうから、無駄と言えなくもないが、一年、お世話になった方々に、御礼も込めて暦を渡すというのは、また来年も宜しくお願い致しますと意味も込められているはずだ。

先日、外出している間に、事務所の入口に暦が置かれていた。わざわざ届けに来てくれたことに対し、この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。

加筆訂正:2012年12月22日(土)

冬の空 2012.12.13

昼間の晴れがそのまま続いて、雲のない夜になった。猛暑の夏であれば、少し歩いただけで汗ばむくらいだったのに、いまは襟巻きさえも必要だ。真冬の寒さには、まだまだ程遠いが、自分も含めて、道行く人は完全に冬の装いだし、電車に乗れば座席暖房が入っている。昨日も書いたが、大抵の建物では、暖房なしでは暮らせない。その点、動物たちは、自然環境のままに暮らしている。人間とは、か弱き生き物である。

帰り道、月のない夜空を、もう一度眺めた。東京という光り輝く巨大都市の上には、果てしない宇宙が広がっている。 今夜は雲がないから、東京で発せられる熱が、空へと解き放たれて行く。いや、都会の喧噪も光も、広大な宇宙へと吸込まれて行くのだろうか。そして喜びも悲しみも怒りも同じように…。そんなことを考えたら、ふと、自分の存在がとてつもなく小さく感じられたりもする。

だからこそ、自分らしく、自分の道をつくって行かなければと強く思う。

太陽の力 2012.12.12

師走も半ばに近づき、朝晩は冷え込む日が多くなって来た。もう12月なのだから、あたり前である。この時期になるといつも思うのだが、暑かった夏はいつの間にか過ぎ去り、暖房が必要な季節になった。そして、これから寒い日が続いて行く。直接的でも間接的でも、化石燃料を使う暖房が、ますます求められる。

その一方で、今日は朝から目映(まばゆ)いばかりの陽射しが降り注いでいる。手をかざすと温かい。空気のない宇宙空間を移動して来る日射というのは、空気があってもなくても、その空間を移動できるのだから素晴らしいと思う。しかも地球そのものを温めてしまうのだから、太陽は偉大だ。

宇宙を通って来た日射をできるだけ建物に導き入れて、暖房の代わりにしようというのが、自然暖房という考え方である。その太陽熱は、使っても使わなくても、誰も文句は言わない。誰もがただで手に入るからであり、満遍なく「遍在」しているからでもある。だからこそ、できるだけ簡易な設備を使って利用すべきではないかと思う。

今日のように降り注ぐ太陽の熱だけを使って、暖房や給湯をすべてまかなえるとしたらどんなにか素晴らしいだろう。もちろん、そういった取り組みは、これまで数多く行なわれて来たし、たくさんの人が試行錯誤を繰り返して来た。日射を室内に導き入れて暖房をすること。単純にして、実に素敵な手法だと思う。

陽のあたるホームに立ち、目を閉じると太陽の温かさが身体全体を包み込む。まさに太陽との交感である。師走の慌ただしい時期だからこそ、こういった自然の働きかけに、少しでも気持を傾けたいと思う。