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文章 視察 還流独歩 大福企画

2009年9月から「環流独歩-かんりゅうどっぽ」という標題で、日々の活動や、普段、思い描いていることを書き始めました。これは、JIA/日本建築家協会東海支部が毎月発行している会報誌「ARCHITECT」に寄稿させて頂いたときに、自ら付けた標題をそのまま使用しています。

移動などが多いため、抜けているところや、日付を遡っての更新も多々あります。また、どうしても誤字脱字や文章の詰めの甘さが出ることも多く、後日、読み返して気がついた箇所は、適宜、加筆訂正等を行っていますので、その旨、どうぞご容赦下さい。
 
加筆訂正:2012年1月1日(土)

文優さんのこと その3 2012.12.31

いろいろな人とのつながりが増えたのも、この頃だった。そして、ことあるごとに彼のことを想い出しつつも、日々の生活の中で、彼に対する感謝の気持ちが薄れているような気さえするようになった。もしかしたら、それはいまも変わらないのかもしれないと失礼なことを考えたりもする。

生前、彼は「長生きしたいなあ」ということを言っていたらしい。そのことばの重さを、いま改めて感じる。こうして私がいまも活動できているのは彼のお陰に他ならない。彼がやり遂げたいと思っていても、なし得なかったことを、私は何らかの方法で具現化しなければならない立場に置かれているのだと思う。

故人の実名をあげて、こんなことを語るのは甚だ失礼なのかもしれないけれど、彼なら許してくれるだろう。2012年の終わりも押し迫ったこの時期、何だか彼のことを妙に想い出すと感謝の気持ちで一杯になる。そして、来年に向けての自分はどうあるべきか、これからの活動をどのように発展すべきかに想いを巡らせる。

最後に、今年も多くの方とのつながりの中で、たくさんのことを学ばせて頂きました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。そして文優さんにも…。

文優さんのこと その2 2012.12.30

それから数年が経った頃、彼からいつもとは違う連絡が来た。いま受けているいくつかの仕事を、私に引き継いで欲しいというような内容だった。いろいろな調査業務なども少しお手伝いさせて頂いてはいたが、どうも様子がおかしいと感じた。私は私なりに試行錯誤を繰り返す中で、少し先が見えて来た頃でもあった。

そして彼は2006年の秋に亡くなった。36歳だった。彼が天国へと旅立つ一週間前、私はそんなことになるなど思いもしなかったから、いつものように気軽に電話をかけたが、声を聞くことは叶わなかった。詳しくはわからないが、愛知にある病院から自宅に戻り、最期はご家族が看病をしていたようである。

その頃、少しずつ前に踏み出すことによって、ほんのわずかだけれど、新しいことを切り開けそうな状況にあった私は、彼が行なっていた業務を、そのまま引き継がざるを得ない状況下に置かれることとなった。そして、自分の仕事と彼からの仕事が二重に入って来て、私は一気に忙しくなった。これまでにない充実感を得つつも、まったく喜べない自分がいた。

文優さんのこと その1 2012.12.29

今年の年末に思うこと。

櫻井文優(さくらいぶんゆう)さんに出会ったのは、確か12-13年前の2000年くらいのことだったと思う。某大学の先生から紹介されたのがきっかけだった。何かの用事でケルンからミュンヘンに出かけたときに、そこで初めてお会いした。その当時、ドイツでの生活に翻弄されていた私だったが、それとは対照的に、彼は大きな目標を持ち、活き活きとしていた。

それから間もなくして、彼は長い闘病生活を送ることになる。頭部にできた腫瘍の治療のため、アメリカのボストンへ行くことになったという連絡が来たのは、出会った2000年の師走か、その翌年だったと思う。彼はミュンヘン工科大学の博士課程に席を置きながら、時折、日本とドイツを往復する精力的な生活を続けていた矢先のことである。

それからしばらくして、たまに会ったときも元気そうにしていたし、治療は順調に進んでいるものと私は勝手に解釈をしていた。その一方で、容態は好転してはいないというようなことも知人からは聞いてはいた。大丈夫なのか心配だったが、本人に訊くのも何だか失礼に思えたし、いずれにしろ私にはどうすることもできなかった。

なんもさ文化 その2 2012.12.28

話は大きく変わるが、北海道の慣習として、よく引き合いに出されるのが会費制の結婚式である。いまはどうかわからないが、おそらくまだほとんどの場合、一律の会費をもらう方式をとっていると思う。つまり、招待制ではなく、「来れる人は来て欲しい」、あるいは「お祝いの席に是非参加を」というようなことなのだろう。内地(本州)の人には理解できないかもしれないが、北海道に根強く残る生活文化の一つだとも言える。それがいまの実社会に相応しいかどうかはわからないけれど、お祝いの席の会費は抑えて、できるだけ多くの人に参加してもらって祝福するというような気風がいまも残っている。

話は戻って、気兼ねない相手が遊びに来たときに、「飯、食ったか?」「これからつくるから、食ってかねえか?」というような展開は良くありがちだ。いや、いまはそんなことはないのかもしれないし、札幌のような日本で4番目の都市では、そういった関係も希薄になっているのかもしれないが、互いに裏を詮索せず、遠慮の要らないつながりというのは、相手によるとはいえ、北海道には、まだ根強く残っているのではないだろうか。実際、内地(本州)から来た旅行者たちが、北海道人の馬鹿なまでの開放的な人柄に驚き、また受けた心遣いに感謝するという話は、いまだに聞くことがある。いや、それは北海道に限ったことではないとは思うけれども…。

日本で見かける世界地図は、当然のごとくアジアが中心だが、欧州の地図では日本は右端に描かれている。まさに極東なのだ。その中でも北海道は、地の果てと言ってもよいくらいの場所にある。ロシアという大陸を背にした、小さくて大きな島、北海道。そこからアメリカまでは遥かなる太平洋があるだけだ。そんなところに住まう人たちだからこそ、「なんもさ」という許容と優しさが育まれて来たのかもしれないとさえ思う。郷土に対する愚直なまでの誇りを私自身もずっと持ち続けたいし、いつか何らかの方法で、恩返しのようなことができたらという気持を、心の片隅にでもよいから置いて置こうと思うのである。
 
加筆訂正:2013年1月11日(金)

なんもさ文化 その1 2012.12.27

よく取り沙汰されることだが、日本にある47の都道府県ごとに、それぞれ県民性というものがあるらしい。昔は「お国柄」と言っていたようだし、いまもその名残は確実にあると思う。

先日、帰郷したときに「北海道人」「気質」というような文で検索してみたら、次のような情報が出て来た。北海道人には次のような二つの特徴があるという。一つは「インデネカ文明」で、もう一つは「シャーナイズム」らしい。「インデネカ」の方は「詰めの甘さ」であり、「シャーナイ」の方は「諦めの早さ」」だそうだ。初めて聞いたが、確かにそんな一面はあるかと思う。これらを良い方に受取れば、どちらも「寛容」や「許容」「おおらかさ」を示していると思われるし、そのまま否定的に捉えれば、「いい加減」であり、「浅はか」となるのであろうか。

そう言いつつも、北海道にもいろいろな人がいるから、すべての人がこれにあてはまるわけではない。ただ、親戚や知人などを見渡してみると、確かに的を得ている気もするし、あるいは「しきたり」とか「順番」いったことにも、こだわらない人が多いかもしれない。そんなことに固執していたら、昔は厳しい冬を越せないかったということも少しは関係しているのだろうか。雪が降る前に、終わらせなければいけないことも多かっただろうから、物事の順序をわきまえずに生きるしかなかったとも言える。それは悪く言えば、「大雑把」ということにもつながりそうだ。

そして、北の大地に住む人の特徴について触れるとき、「なんもさ」という表現を抜きには語れないように思う。あるいは「なんもなんも」というもの使われる。説明するまでもなく、「ありがとう」という御礼に対する返事だ。「たいしたことないよ」「何も気にすることではない」。もっと砕けた表現を使うと「こったらこと何でもねえ」という意味である。私は北海道を離れて長いから、普段は耳にすることはないが、いまも頻繁に使われている北海道弁の一つであろう。ひらがなにして、わずか4文字の中に、どこかしら優しさが詰まっているように聞こえはしないだろうか。

さらに調べてみたら、北海道特有の文法があることもわかった。その例が「書かさらない」「開かさらない」といった表現である。例を挙げると「このボールペン、書かさらない」、「この瓶の蓋、固くて開かさんない」となるだろうか。他にも「この石、動かさらない」などのように、「…さらない」というのは、自分の意思ではどうすることもできず、しかもそれは誰の責任でもないという意味も込められているという。これらも、厳しい気候風土の中で生き抜いて来た人たちの、ある意味、おおらかさが影響しているのだろうか。
 
加筆訂正:2013年1月6日(日)

シバレル祖国 2012.12.26

24日(月)の昼前の便で東京に戻る。

寒波が流れ込んでいる影響で、全国的に冷え込んできたようだ。郷里の風除室に吊るしてある温度計は氷点下10℃を示しているから、外はもっと低いだろう。千歳空港へ向かうとき、車に表示されている外気温は氷点下17℃だった。富良野では、氷点下25℃を記録したらしい。

空港に着いたとき、久しぶりにダイヤモンドダストを見た。確かにシバレている。離れて久しい祖国の北海道にも本格的な冬がやって来たが、今年は例年以上に寒くなりそうだ。小学生のときには、毎日、氷点下20℃近い中を、元気に通学していたし、それがあたり前だった。いや、それは帯広や旭川といった極寒の地ではいまも変わらないだろう。

一年のうちの半分を雪に閉ざされる郷里に生きる北海道の人を私は誇りに思う。その一方で、郷里を離れて暮らしていることに対する微妙な罪悪感と言えば良いのだろうか、そんな気持がいまも心の片隅にある。雪に埋もれている郷里から東京に戻ると、何だかそんなことを感じてしまうのである。

夕張と石炭 その3 2012.12.25

その一方で、石炭がまったく使われていないかというと、世界的に見れば、その産出量は増えている。発電するにしても、石炭をガス化した複合発電技術も開発されているから、石炭は完全に見捨てられたわけではないようだ。石油に比べれば扱いにくいかもしれないが、その良さが、もっと見直されるべきなのかもしれない。黒いダイヤと呼ばれた時代は過ぎ去ってしまったけれど、見方を変えると、燃える石というのは、新たな魅力を持っているとも言える。

ちょうど石炭から石油へと移行しつつあった子供の頃を想い出してみると、まだ北海道のどこの家にも石炭ストーブか、薪ストーブがあった。家の裏には石炭小屋があり、薪を置いておく場所も決まっていた。そういえば小学生の頃は、よく薪割りをさせられていたものだ。田舎の風呂は、確か石炭か薪で沸かしていた。学校の暖房も石炭か練炭だったし、ストーブの上には「蒸発皿」が置かれていたことを想い出す。私はそんなことを体験した最後の世代だと思う。

いま、暖房として、ペレットストーブや薪ストーブを使う家も多い。手間は多少かかるけれども、家の中に炎があるというのは、素敵なことだと思う。熱源というと少し硬い表現になってしまうが、何かが燃えることによる暖房効果というのは絶大で、断熱がしっかりしていれば、家の中全体を温めることができる。もはや見かけることがなくなった石炭ストーブだが、そんな暖房方法が見直されても良いのかもしれないと、雪に埋もれた夕張の街を見ながら考えた。

石炭を使った暖房は、現実的ではないかもしれないけれど、強力な熱源と熱容量のある建築部材を合わせると、新しい暖房方法に対する新たな示唆が得られるかもしれないとも思う。それは決して昔に戻ることではない。最新の技術によって見失ってしまった基本的なことを、もう一度、検証してみることで、埋もれていた「気づき」というものが現れてくるかもしれない。

そして暖房だけでなく、冷房方法についても、どうあるべきか、これからもいろいろと考えていきたいと思っている。

夕張と石炭 その2 2012.12.24

周知のごとく、夕張市は財政破綻した自治体の一つである。再建に向けて、いろいろな試みが行なわれているのだろうけれど、かつて炭坑景気で沸いた活気は、もはやどこにも見当たらない。人口は約1万人。もはや「市」としての人口を保ってはいない。同じ空知支庁にある歌志内(うたしない)市は人口が5000人を切っているし、三笠(みかさ)市も1万人を割り込んだ。その一方で、札幌は190万都市となり、日本で4番目に大きい都市ヘと成長した。

日本全国の地方都市の過疎化が取り沙汰されるようになって、もう何年くらいになるだろうか。そういった研究をしてるわけではないから詳しいことはわからないが、1970年代か80年代くらいからかもしれない。その流れは止らず、人口の流出がいまも続いている都市は、全国で相当数に上るはずだ。特に数多くの炭坑があった空知支庁は、閉山とともに、過疎化が顕著になったところが多い。悲しいことに、疲弊している街ばかりのように見える。

資源の変遷を振り返るまでもなく、個体の石炭から、液体の石油への流れは、誰にも止めることができなったのも仕方がない。例えば、石炭で車を走らせることは不可能ではないけれど、一台の車に蒸気機関を搭載することは、到底、現実的ではないし、普及することもあり得ないだろう。飛行機も、石炭を使って飛ばすことは、まず考えられない。何らかの方法で、石炭を液化することができれば、飛行機を空中に持ち上げるだけの推進力が得られるかもしれないが、そんなことも考え難いと思う。

夕張と石炭 その1 2012.12.23

昼過ぎ、車で夕張へ向かう。数年前に訪れた炭坑住宅の改修事例が、どのようになっているのかを確かめたくなったからだ。車で40分ほどの距離である。今日は晴れていて気持が良い。夕張市に向かう道は、その手前で登り坂になり、最後のトンネルを抜けると市内に入る。この峠道は、以前はかなり急坂で、ここに来ると、なぜだか気持が沈んでしまうくらいの独特で陰鬱な雰囲気があったが、いまは道が付け替えられ、幅も広くなったから快適である。

最初に炭坑住宅を見に行く。改修事例は二棟に増えていた。どちらも宿泊体験用だと聞いているが、この時期、借りる人もいないらしく、使われている気配はなかった。ただ、玄関周りは除雪が行き届いているから、管理はされているようだ。その上にある平屋の炭坑住宅には、数年前まで、住んでいる人がいたが、もはや除雪も途中までしかされておらず、もう誰も住まない雪に埋もれる廃墟となっていた。

そのあと市内を少し見て回る。積雪はすでに1mくらいはあるだろうか。車道の脇には高さが1.5mくらいの雪の山ができている。場所によっては2m近い。小学生の頃、親戚が住んでいたところにも行ってみたが、もはやどこだったか分からなかった。そのあと、某所にて食事を済ませる。6席しかない小さなお店である。客は私一人。実に緩やかで静かな時間が過ぎて行く。そのあと小学生の女の子と、その父親と思われる二人が入れ違いに入って来た。

師走北帰行 2012.12.22

今年最後の連休初日、羽田空港を19時に発つ便で千歳に向かう。年末から年始にかけて帰省しようかと思ったが、あたり前のごとく、札幌行きの飛行機は、ほとんど満席で、大晦日ならまだ予約は可能である。逆に東京への戻りは、元旦には空席があるものの、二日になると一気に混んで来る。新年になる直前に郷里に着いて、二泊くらいで東京に戻るというのでは落ち着かない。同じ慌ただしい状況なら、今回の三連休に移動した方が良いと勝手に考えた。

満席に近い飛行機は定刻に駐機場を離れ、多少の揺れを受けつつも、千歳空港には時間通りに到着した。まさに電車並みである。気温は氷点下5℃。機内から出る人も出迎える人も完全に冬の装いである。そういえば、隣りに座っていた男性は、着陸前から厚手のコートを着て、襟巻きと手袋をして、しかも帽子までかぶっていた。仕舞には、額まで隠れそうな長いえりを立てて、顔まで塞いでいた。

電車やバスに乗るには暑過ぎる格好だろうし、車での移動にしても、完全防備過ぎるのではないかと思うのだが、要らぬお節介である。外に出ると寒い。東京の寒さとは明らかに違う。すでに何度か雪が降ったとのことで、路面は圧雪状態だが、滑りやすい状況ではないようだ。気温はさらに下がって、氷点下10℃くらいである。その中を暖かい車で移動できるというのは、実に有難いことである。

これから寒気がやって来て、冷え込みはさらに厳しくなるという。北国の冬はもう始まっている。