友人の写真展 2010.01.27
知り合ってから、もう8年ほど経つケルン在住の写真家の友人が、昨年の11月からケルン市博物館で写真展を開いている。先週、彼から電話があり、今日の昼前に会うことになった。できれば夕方にしたかったが、せっかく誘ってくれたので、こういうときは快諾するに限る。普段は意外と外出する機会がないから、こういった誘いはむしろ有難いと思わなければいけない。
入り口で待っていると友人がもう一人来た。一年前に子供が生まれた彼は、毎週水曜日に育児休暇を取っている。毎週一回、奥さんに代わって朝から子供の面倒を見ているのだ。その分給料は下がるが、子供と接する時間がきちんと取れるというのは素晴らしいことだと思う。この育児休暇については、是非、別の日に紹介したいと思う。
彼の個展を見る前に、上階で行われている別の写真展を彼が案内してくれた。1900年代前半に活躍したケルンの写真家で、August Sander/アウグスト・ザンダーは、人物を精力的に撮り続けた人だが、第二次世界大戦が始まる前の1939年頃のケルンの街並と教会を写真に納めることにも尽力した。彼は暗黒の時代が徐々に迫る中で、戦争によって奇麗な街並が失われるかもしれないと考え、多くの風景を写真に納めたのである。
空襲を受ける前のケルンは本当に奇麗だ。といっても写真はもちろん白黒なのだが、なんて言うのだろうか、歴史を携えた街並の美しさというと少し大袈裟になってしまうが、何かそんな深みが感じられるのである。すぐ近くの教会の二つの塔が戦災に遭うまでは、瀟洒なつくりをしていたことを始めて知った。人物はそれほど写っていないが、いくつかの写真には戦前の人たちの様子が垣間見られる。
そんなことを感じながら写真を見ていたら、後ろからお父さんの団体が来た。全部で10名くらいはいるだろうか。それほど大人数ではないが、昔のケルンの写真を見ながら、戦前はこうだったとか、戦災を受けたあとは昔の面影はほとんど失われてしまった、などと言い合っている。そのうちの一人が案内しているのだが、お父さんたちの眼差しも質問も真剣である。
日本でも、昭和の頃の写真が懐かしいのと同じなのだろう。昔はこうだったとか、いまとは全然違うとか、そういう写真を見ながら歴史を振り返ることは、とても大切だと思う。写真というのは一瞬の記録に過ぎないが、ある瞬間を明確に写し出す素敵な技術だ。最近では動画が簡単に撮れてしまうけれども、写真にはまた違った良さがあると思う。
友人の写真家は、ケルンに新しく完成した芸術博物館が建設される様子を2002年からずっと撮り続けている。被写体は取り壊される前の芸術館であり、それが解体される様子から、新しく建設されるまでの経過を適度な間隔をおいて撮影した作品である。それは一週間だったり、あるいは数か月おきだったりする。
彼はケルンを撮り続けている。その対象は何気ない風景である。今回の写真展も写真で何かを表現するというよりも、むしろ記録写真といって良いと思う。写真が芸術作品の一つとして扱われることも多いけれど、彼の作風は芸術ではなく、むしろありふれた光景を「切り撮る」ことなのだと思う。写真集も何冊か出版しており、そのうちの一冊については、別刷りながら日本語訳を手伝わせてもらった。
彼と出会ってから、私は少なからず彼の影響を受けている。でもそれが、どんな風に受けているかについては自分でもわからない。ケルンは奇麗な街ではなくなってしまったけれど、ケルンで撮った写真は紛れもなくケルンの写真である。彼の写真や写真集を見てから、自分なりにケルンを撮ってみようという気になった。もちろん素人の範囲でしかないのだが。
市立博物館を出て、近くのカフェで軽い昼食をとる。育児休暇中の友人も一緒だ。一時間近くいろんな話をする。最近彼が共同執筆した本の裏話などを聞く。こういった時間はわたしにとって、とても貴重だ。誘ってくれた友人に感謝である。写真家の彼とはお店の前で別れ、子連れの友人と本屋に立寄り、お土産を探しに駅前の観光案内所に行った。
徐々にカーニバルの準備が進むケルンの街を抜けて帰ってきたら、夕方に近い時間になってしまった。
加筆訂正:2010年2月24日(水)