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還流独歩

ルクセンブルクな夜 2010.03.30

日曜に会ったルクセンブルクから来ている二人が、引率者のドイツ人の友人と一緒に、ルクセンブルクの建築について講演をするというので、建築家会館に行った。ルクセンブルクには何度も行っているし、あまり大きくない国だから、大方の建築は見ただろうと思っていたが、彼らの講演を通じて、洗練された建物が他にも数多くあることがわかった。

彼らの説明を聞き、事例写真を見せてもらう中で、うまく言葉には言えないのだけれど、彼らの建築には何か余裕のようなものが感じられる気がしてきた。それは、ドイツの優れた建築を見たときと同じかもしれない。ドイツと日本の建築の違いの本質を私はいつも探してきたし、いまも探し続けている。それに意義があるかどうかはわからないが、私なりに納得したいと思っている。

今日、ルクセンブルクの建築を改めて見る中で、その違いの一つは、いま言ったような建築から醸し出される余裕のようなものではないかと感じた。その余裕とは、もちろん、お金がかかっているとか、丁寧なつくりをしているということが大部分を占めているかもしれないし、あるいはそこから感じられる重厚さなどもあてはまるように思う。

でも、余裕を生み出すには、他にも違う何かがあるように感じられるのだ。それは一体何なのだろう。彼らの事例を見て行く中で、私がふと感じたことは、もしかしたら建築に求められる永続制が私の言うところの余裕と何か関係があるのかもしれないということである。つまり、彼らが手がけた建築の多くが、そう簡単には壊されることはないと感じさせるような安定感を持っているからではないだろうか。

翻って、日本の建築には私が感じる余裕というものはないのだろうか。そんなことは決してないと思いたい。でも、数十年後には解体されてしまうことを想像させる建物が多いのも事実である。そういった多世代への継続性を感じられない建築は、それほど遠くはない未来に、その生命が断ち切られてしまうという不安を常に抱えているように見える。

それがすべてに渡って良くないことだと決めつけるのは強引過ぎるかもしれない。まして、日本には地震の危険性が常につきまとうから、建設と解体の連続は、日本の建築的文化とも言えるが、そこにいつまでも建ち続けるという自信と余裕のある建築の方が、私にはどうしても素敵に見えてしまうのである。

世の中には、いろいろな考えがあるから、私の意見が正しいとは思っていない。でも、ルクセンブルクの建築を見ながら、何となくそんな余裕が感じられる作品を残し続ける彼らが素直に羨ましく感じた。その気持ちを自ら認めつつ、同じ方向に進みたいと感じた夜だった。

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