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仕立て屋さんのアイロン その2 2010.12.21

洗濯を終えたあと、私はまたお店に立寄った。陳列棚に残されたアイロンを買うためである。どこかに飾るとほどでもないけれど、急に欲しくなった。丁寧に迎え入れてくれたお父さんにアイロンが欲しいと言うと、「これはまだ使えるんだよ」と言う。そしてお父さんはお店の奥にから電源コードを持って来てくれた。白いけれどかなり汚れていた。

そのアイロンを私が使うことなど、きっとないと思うけれど、お父さんが長年使っていたものを、手元に残しておきたいと思った。お父さんの生い立ちも聞けたら楽しかっただろうし、45年に亘るお店の歴史とかも、きっと本が書けるくらいたくさんあるはずだ。ケルンの生活の中で、そんな記録を残してみるのも面白いかもしれないと思ってはいた。

でも思っているだけで、これまで何もして来なかった。お父さんが経営する仕立屋さんは絶好な対象だったから、話を聞いてみようかという想いが頭をよぎったことも何度かあった。もうなくなってしまうと聞いて、自分の行動力のなさに少し嫌気がさしたが、お父さんは静かに閉店したいのかもしれないとも考えた。

それにしても、80歳まで自分のお店を続けるというのは、なかなかできることではないだろう。まず何よりも健康でなければならない。いや仕事をしているから健康なのかもしれない。これからお父さんは、悠々自適の年金生活を謳歌するのかもしれないが、勝手なことを言わせてもらうと、仕立て屋さんの仕事も少しは続けて欲しいと思ったりする。

最後にまた少し話をして、「お互いに元気で」と言い合ってお店を出た。外から手を振ると、お父さんも振り返して来てくれた。おそらく、お父さんにはもう会うことはないかもしれない。帰り道、今度は近くの居酒屋で会えたりしないかなと思った。握りしめたアイロンは少しガタついているけれど、ケルンの想い出の一つとして取っておきたいと思う。

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