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還流独歩

PC廃棄 その2 2011.05.04

歩いて10分のところに、小さな家電製品の廃棄を受け付けてくれるところがあるので、今日、そこに古い二台のノートPCを持ち込んだ。その前に、最後の記念にと思い写真を撮った。普段はそんなことなど絶対にしないのだが、珍しく何か心に引っかかるものがあった。春の太陽と青く澄んだ青空のもと、リュックに想い出のPCと付属品を詰めて、それを捨てに行くのは、何だか不思議と気持が重く感じられる。だったら止めれば良いのだが、何だか変な使命感のようなものだろうか。

受付のある入口でノートPCを持って来たと言うと、その脇にあるごみ箱に入れるように指示される。そこには、捨てられた小さな電化製品がすでに目一杯入っていて、一番上には古い電話機が乗せられている状況だった。そして、私が持参した二台のPCと付属品は、そのごみ箱の隙間にあっさりと捨てられた。係のお父さんが「壊れたのか」と訊いて来たので、やや答え窮したが、適当にはぐらかした。確かにまだ使おうと思えば、できなくはないかという思いがまた頭をよぎった。

これまでいろいろなものを捨てて来たけれど、何だか今回は不思議と気持が切り替わらない。リュックは軽くなったけれど、気分は重いままだ。そして帰りがけに、ノートPCの写真を撮るくらいなら、開いた状態で写せば良かったなどと珍しく少し後悔もした。そんな写真など、もう二度と見ることもないはずなのに。これまで、捨てることの大切さを何度も書いて来たが、今日は何だか後ろめたい気持が先行してしまっている。その理由は自分にもよくわからないし、ただの気分的なものかもしれない。

人にとって必要なものは、年齢を重ねるごとに変化するし、置かれる環境によっても大きく違って来る。ものがたくさんあれば幸せかというと、そんなこともない。今日捨てたPCも、その中の一つだ。捨てられないというのは、ただ想い出にすがっていたいだけのことなのかもしれない。そういえば、中学校のときの担任の先生がいつも口癖のように言っていた。「あってもなくても良いものは、なくて良いんだ」。そのことばをまた想い出した。その意味がいまになって少しわかる気がする。

捨てることは新しい何かを受け入れることでもある。それは形あるものかもしれないし、新たな環境や、目に見えない精神的なものかもしれない。もちろん、別に新たな何かを無理に受け入れる必要がないときもあるだろう。別に難しく考えるようなこともないけれど、人間にとって必要最小限のものは何かについて想いを巡らすことが、以前よりも多くなったように思う。きっと心の中のどこかに、本当に必要なものを探したいという気持が常に燻(くすぶ)っているのだろう。

何かを捨てるということは、そのときの自分と向き合うということなのかもしれないと思ったりするのである。

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