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還流独歩

見送る立場 2010.01.05

ドイツに来てから、見送る側の気持ちが少しわかった気がする。それまで真剣に考えたこともなかったのだが、ドイツでの生活を始めるまで、私は見送られる機会の方が多かったように思う。郷里に帰省するときも、東京を離れた友人を訪ねるときも見送られる側だったし、日本からドイツへ発つときも歓送されてばかりいた。

見送られる側は、そこから次の移動があるから、別れたあとも意識をそちらに向けなくては行けない。一方、見送った側は特にすることはない。そこが友人宅であったり、実家だったりした場合には、見送った人は家に入るだけだし、駅とか空港とかに見送りに行ったとしても、あとは帰るだけのことが多いだろう。

見送る側というのは、見送られる側より辛い立場なのかもしれないと思う。生きて帰れる保証のない戦争に行くとか、中国残留孤児のように、異国の地に自分の子供を置き去りにせざるを得ないような人生の生死を分ける別れの場合には、あてはまらないと思うけれど、ごく一般的に言って、見送る側の方が何となく寂しい気持ちになるような気がする。

何故、見送る側が辛いかというと、残される側だからだろう。そう、残される側は心を切換えるまで時間がかかるのだ。ドイツに両親が始めて遊びに来たとき、フランクフルト空港で見送る立場になった私は、郷里を離れるときに見送ってくれる両親の気持ちが始めてわかった気がした。もちろん全部などわからないのだが、何となくそう思ったのだ。

見送る側と見送られる側の間には、大きな違いなどないように思っていたけれども、見送る側になることが多くなってからは、その場に残される側の方が、微妙な心の隙間をうまく埋められない気がしたりする。しかも見送る側が一人で、行ってしまう側が大勢だったら、もっと辛いかもしれない。その逆で、見送る側が大勢いて、見送られる側が一人の場合だったらどうだろうか、とも考えた。

自分で言い出しておきながら、意見を翻すわけではないが、別れは見送る側の方が辛い、と勝手に決めつけたものの、人がそのときに置かれている環境や立場によっても大きく違ってくるだろうし、それこそ気持ちの持ち方一つで差があるに違いない(笑)。でも、見送る側の気持ちというものを感じられるようになったことは、ドイツに来てからの一つの大きな変化だったように思う。

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