理念 建築 略歴 連絡
文章 視察 還流独歩 大福企画
還流独歩

報道のあり方 2009.11.10

日付がかわりかけた夜中の12時過ぎ、ヘリコプターが飛ぶ音が聞こえてきた。飛んでいるところは見えないので正確な方角は良くわからないが、日本橋方面であることは確かだ。こんな時間にヘリコプターが飛ぶとは、何か重大な事件が起きたのかもしれないと思い、インターネットを見ると、大阪で逮捕された某事件の容疑者が、東京行きの最終の新幹線で護送されているという。おそらくその到着の様子を取材しているのだろう。

ここに書く内容として、あまり相応しくはないとは思うけれど、敢えて書かせてもらうと、こういった報道はあまりにも異常ではないだろうか。容疑者が犯したと思われる行為は確かに非情に違いない。だからといって、護送される様子を克明に伝える必要性は本当にあるのだろうか。容疑者を擁護するつもりは毛頭ないが、逮捕された場所を撮影して放映したり、あるいは、その生い立ちから何から何まで、身ぐるみを剥ぐような報道こそ、もっと恐ろしいことをしているのではないかとさえ思えてくる。

そんなことを言うと、報道の自由だとか、知る権利があると言われそうだが、私たちが本当に知りたい、いや知らされるべきことは手に入らないという、まったく逆の状況が起きているように思う。犯罪を犯した人の素性や人格、そのひどさを執拗に追求するのではなく、むしろ報道されることなく闇に葬り去られようとしている政治がらみの巨悪な犯罪や、国民が大きな損失を受けるような重大な問題の方を是非、知らせて欲しいと思う。権力に立ち向かうのがジャーナリズムであって、いまの日本の報道機関にはそれがまったくないといって良いだろう。

個人情報保護法という法律があるにもかかわらず、日本では、交通事故や火災など、不幸な事件に巻きこまれた人の名前が相変わらず実名で報道されている。この法律は、報道倫理とは何の関係もないようだが、辛い立場に置かれている人の名前や写真を大々的に公表する必要性を私はまったく感じない。ドイツの例で恐縮だが、不幸な目にあった人の名前が新聞に掲載されたり、テレビで流されたりされることは一切ない。得られる情報は居住地と性別、そして年齢だけであり、個人を特定できるような具体的なことが報道されることはない。倫理観のある大人な対応だと思う。

それに対し、不慮の事故や火災で亡くなった方の実名と顔写真が、いとも簡単に世の中に出てしまう日本の報道のあり方は、極めて歪んでいるといって良いだろう。殺人犯とか、巨悪な犯罪を犯して指名手配されているような人は名前や顔が公表されてしかるべきだが、一般人の名前と顔を出すのは、楽しくて幸せになるような良い知らせや、社会貢献といった場合のときだけにして欲しいと私は願っている。

日本の報道機関に大人の対応を求めることの方が無理なのだが、一連のいろいろな報道を見たり聞いたりするとき、私は知りたくない権利、あるいは知らされたくない権利もあるのではないかと思っている。もし自分が不幸な目にあったとき、名前と顔写真を新聞やテレビで執拗に公表されるとしたら、どう思うだろうか。もし亡くなってしまったとして、生前の美談とか流して欲しいだろうか。そんなことを考えるとき、日本の報道機関こそ刷新してもらいたいと感じるのである。

« »