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還流独歩

風車の気持ち 2009.12.17

風車といってもオランダにあるような粉を挽く昔の風車ではなく、風力発電用の風車である。先日、視察の皆さんと一緒に、ドイツ中央部にあるパダーボーンという街の郊外を車で走っていたら、無数の風力発電に遭遇した。なだらかな丘陵地帯が続く地域だから、発電には適した風が得られるのだろう。

それにしても、風車の数が半端ではない。その日は晴れていたので視界も良く、水平線の彼方に立っている風車まで見渡せた。数にしたらどれくらいあるのだろうか。一か所に10基から15基くらい配置されていて、遠くの方まで入れると、そんな風車群が無数にある。正確な数などわからないけれど、おそらく見渡せる範囲には数百基程度はあるだろう。

当たり前のことだが、回っている風車と止まっている風車がある。止まっている風車は、羽が回転するだけの風力が得られないから、回らないだけのことなのに、気持ちよく回っている風車と比較すると、怠慢なように見える。簡単にいえばサボっているのではないかと思えてくる。

回転している風車を1号基、回転していない風車を2号基とする。仲を取り持つのは風車3号基としよう。

風車1 「お前、何で回らないんだよ」。
風車2 「風が吹かないからだろ」。
風車1 「こっちには適度な風が来てるのに、少ししか離れてないだろ」。
風車2 「こっちには吹いてないんだよ。仕方ないだろ」。
風車1 「本当に吹いてないのか? こっちは懸命に発電してるのに、いい気なもんだな」。
風車2 「別に好きでじっとしてるわけじゃないよ」。
風車1 「いいよね〜、気楽で」。
風車2 「勝手に決めつけるなよ。そっちこそ、頑張って回ってます、みたいな感じでうっとうしいんだよな」。
風車1 「回るの飽きたんで、こっちの風、そっちに回そうか?」。
風車2 「ごめんだね。そのうち吹いてくるだろ。いまは休憩中ってことで宜しく」。
風車1 「適当なことを言って、結局、休んでるだけなんだろ」。

風車3 「まあまあ、そう揉めないで。風が吹いたら回って、ないときは休む。それでいいじゃないですか、僕ら風車なんですから」。

別の日。

風車1 「今日は景気よく回ってるね〜」。
風車2 「あったり前よ、俺たち発電してなんぼだろ」。
風車1 「いや、そうだけどさ。その回り方って、ちょっと激しくない?」。
風車2 「風が強いんだから仕方ないだろ!」。
風車1 「ご立派! 発電風車の鏡!」。
風車2 「勝手に持ち上げるなよ」。
風車1 「こっちの分も発電宜しく!」。
風車2 「まったく都合がいいんだから」。

風車3 「まあまあ、そう揉めないで。強い風を受けたときはたくさん回る。そうでない風車は次の高速回転に向けて身体を休める。それでいいじゃないですか、僕ら風車なんですから」。

車を走らせながら、そんな実に下らない会話を楽しんだ。狭い車中の長時間の移動には、他愛もない冗談が必要になることも多い(と勝手に思っている)。もちろん、ずっとそんなことを言い続けている訳ではないし、同乗者が眠っているときは、起こさないように丁寧に走ることを心がけているが、運転しているといろんな場面に遭遇するから、それが変な会話に展開するのも楽しいことだ。

ところで、放送作家で脚本家でもある小山薫堂(こやまくんどう)さんという方がいる。数々の有名なテレビ番組を手がけている人で、テレビがない私でも、その番組名を聞けばわかるくらい、たくさんの名番組を世に送り出した著名な方だ。その小山さんが言うには、物事に感情移入すると面白くなるという。例えば、「僕が駅の改札機だったら」と考えると楽しいことがたくさん思い描けるという。

だからといって「風車の気持ち」を書いたのは、それに影響されたわけではない。自分自身でも(多少は)恥ずかしくなるのだが、私がときどきそんなことを考えるのも、彼の世界を考えると別に頭がおかしいというわけではなさそうだ。もちろん私は放送作家になろうとは思っていないし、いまからなれるわけではないけれど、彼の言う感情移入というのが、自分でも意外と好きだということがわかってきた。

こんな内容が、この「環流独歩」相応しいかといえば、きっとそうではないだろう。もっと建設的な話題を書く方が遥かに大切に違いない。でも私の頭の中は、いつもそんなことばかりを考えているわけではないから、これからも時折、崩れた話題を書き綴っていきたいと思っている。ちょっと恥ずかしいけれど。

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