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還流独歩

中庭の向こうで家族拡大 2010.05.31

昨日は、中庭の反対側に住む親子との窓越しの交流について書いた。このお宅に小さな子供がいることは、私は以前から知っていたし、実のところ、その子が生まれる前から、家族が一人増えることさえもわかっていた。そんなことを書くとかなり不審がられるに違いないだろう。

この家族が中庭を挟んだ反対側に引っ越してきたのは、もう三年くらい前のことだろうか。特に意識をしていたわけではないし、結構離れているので、部屋の詳細までは分からないが、何もなかった部屋に荷物が運び込まれたことは見えていた。最初は段ボール箱がいくつかあったが、それが片付いたあと、中庭の窓側にベッドが置かれた。

私は決して覗き見をしているわけではない。そんな趣味もない。ただ、台所に立つと中庭側に面した窓から反対側の家が見えてしまうだけのことなのだ。しばらくしたら、ベッドに女性が寝転んでいるのが見えた。しかも、お腹が大きいことも分かった。このお宅は、昼間はカーテンをまったく閉めないので、 見たくなくても見えてしまうのである。

その女性は、次第に昼間のほとんどをベッドの上で過ごすようになった。私がお昼ごはんをつくっているときも、午後に紅茶を飲むときも、彼女はベッドにいた。しかも本を読みながら、手を大きなお腹に当てているも見えた。とはいえ、子供がいつ生まれるのかまでは、さすがに分からない。でも、いつか生まれるのだろうと思っていた。

それから、どれくらい経っただろうか。ある日、赤ちゃんを抱えた彼女が窓辺に立っていた。「ああ、生まれたんだ」。私の反応は実に単純で素っ気なかった。でも無事に生まれて良かった。そして、彼女が窓辺で子供をあやす風景は、どこかで見た映画の中の一こまのようにも見えた。そう、私は映画を見に来た観客の立場だったのだ。

念のため、もう一度書くが、私は「覗き魔」ではない。なぜかというと、私の生活も中庭の反対側の住人から見られているからだ。早朝に紅茶を飲んでいる姿や、夜に料理をしながらビールを飲んでいるところなど、何十人にも見られているに違いない。私は特に意識はしていないが、「覗き魔」ならぬ「見せ魔」になったりするのである。

それはともかく、昨日も書いたように、中庭を挟んで、お互いが見えてしまうだけのことなのだ。見られるのが嫌な人はカーテンを掛ければ良いし、見られても構わないという人は、そのまま何もしないだけのことである。日本の人のほとんどが、家の中の様子を見られることに抵抗のあると思うが、ドイツは不思議と反対だったりするのである。

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