理念 建築 略歴 連絡
文章 視察 還流独歩 大福企画
還流独歩

命の長さ 2011.04.26

世の中には公平ではないことがたくさんある。いや、たくさんあるというより、この世の中のほぼすべては不公平で、不平等な社会だといっても良いかもしれない。子供が7歳になるときには小学校に通わせる義務教育とか、二十歳になったら成人となって選挙権が与えられるとか、そういった時系列のものについては、ほぼ平等といえるのかもしれないが、お金や地位、名声、学歴、資産、容姿、経歴など、数限りないことが誰一人として同じではない。

その中で、最も不公平なのが命の長さではないかと最近になってより強く思うようになった。こればかりは本当に理不尽である。本人の意思とか努力といったことでは誰も解決できないことの一つだ。「金で買えないものはない」という意見も、もしかしたらある一面においては正しいのかもしれないが、愛情とか、家族とか、健康とか、あるいは絆といったものはお金では買えないと思う。人の命の長さも同じである。

世の中には延命治療というものがあるから、寿命も絶対にお金で買えないわけではないと思うけれど、でも人それぞれ、生きられる時間というものはまったく違う。幼くして亡くなる子供もいれば、100歳を超えるまで長生きする人もいる。私もこれまで、いくつもの人を見送って来たが、命の長さというものは人によって本当に違う。そしていつか自分も見送られる側になるだろう。それは明日かもしれないし、何十年先かもわからない。

その時期がわからないというのは、ある意味、幸せなことなのかもしれない。それを知らないからこそ、今日という日を昨日と同じように、そして明日という日を今日と同じように生きて行けるのだと思う。でも、その長さには確実に人それぞれの限界がある。それを知ったときに自分はどうするだろうか。その限界を知らないのに、それを知っているかのように、いま行動できているだろうか。最近、何だかそんなことを考えてしまう。

いま日本では、かつての平和な日常を取り戻せない人がたくさんいる。命を失った人の分まで懸命に生きようとしているにもかかわらず、住み慣れた土地にさえ帰れない人がたくさんいる。命の長さは確かに不公平かもしれないけれど、人災による誰も故郷に戻れないという理不尽で「不幸な平等さ」は、到底、受け入れられるものではないだろう。それを思うとき、自分に残された不透明な命の時間と向き合うことが、なぜか求められるような気がするのである。

« »