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鍋文化と削ぎ落し その1 2011.05.01

これも前から書き留めておきたかったことの一つである。季節外れの鍋の話題なのだが、どうかお許し頂きたい。

日本には鍋という実に素晴らしい食文化がある。北は石狩鍋から、すきやき、そして南のもつ鍋まで、全国のいたるところに鍋文化が息づいている。全国区となった、しゃぶしゃぶや、鍋を使った各地の郷土料理を含めると、日本は鍋大国といっても良いだろう。ときには発祥の地についても話題になるが、それに触れ始めると切りがないので、詳しいことは専門家に任せたいと思う。ともかく、鍋は日本の食文化に根強く息づいているし、それはまたアジア圏の特徴の一つに違いない。

ところで、どういった鍋をつくるかによって、入れる食材が変わってくるのは当然だが、多くの場合、鍋に入れる順番が問題になることはあっても、絶対に入れてはいけないというような具というものは、それほど多くないのではないだろうか。もちろん、つくる鍋の方向性とは大きく異なるようなものを入れるのは論外だが、鍋というのは不思議なもので、あらゆる食材を優しく受け入れつつ、それを適度に美味しく変身させてしまう懐の深さを持っている気がするのである。

そして、ここからが本題なのだが、日本とドイツの何が違うかをずっと考えて来た中で、いろいろなものを入れ込むことができる鍋というものが、日本やアジアの中の何かと大きく関係しているかもしれないと思うようになった。あくまでも私見でしかないのだが、それは一般の人が普通に手にするようなもののデザインや、あるいは雑誌や新聞といった何気なく見る媒体の割付などと関係があるように感じられるのである。簡単に言うと、それらは、鍋に入れる具のように、たくさん入れ込むことが大切だと捉えられている向きはないだろうか。

私は鍋が好きだから、たくさんの具が適度にある方が嬉しいし、実際、具が少ないのは寂しいことだ。だから、鍋をするには、それなりの食材が欲しいと思う。その食材の種類や量を、いろいろなデザインと強引に結びつけると、日本では、具がたくさんあった方が良いということがどこか必然的に求められている気がするのである。要は、たくさんあることが重要で、見かけ上、それらが少ないと、何か努力をしていないと見られてしまう嫌いがあるように感じられる。あれもこれも入れ込むことが重要で、それが仕事であり努力の証だと捉える。

一方、欧州ではどうかというと、鍋料理がまったくないわけではない。以前にも書いたが、牛肉を煮込んだハンガリー料理のグーラーシュとか、豆などの具材を入れたスープといったものはあるが、でも日本と同じように鍋を囲んで何人かが一緒に食事をすることはない。そこで言いたいのは、ドイツを含めた欧州の考え方というのは、鍋に具を入れることを中心に考えるのではなく、その中の食材を取出すことにも意識を向けることが、どこかしらあるのではないかということなのだ。

例えば、この食材を入れる代わりに、これを取出してみようとか、これは入っていなくても良いのではないか、という足し算と引き算が適度に組み合わされている気がする。実際、その鍋が美味しいかどうかは別として、多くを入れ過ぎないということを大切にしているように見受けられる。さらに言い換えれば、加えることが努力ではなく、そこから削ぎ落として、本当に必要なものを浮かび上がらせることの方が大切だという考えが、どこか念頭にある気がしてならない。これはもちろん私の勝手な意見だから、正しいかどうかはわからないけれど、いつもそんなことを思う。

加筆訂正:2011年6月11日(土)

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