鍋文化と削ぎ落し その2 2011.05.02
その一方で、私は日本のデザインがまったく受け入れられないものだというつもりはない。国境を超えた世界中で認められている日本人のデザイナーはたくさんいるだろうし、例えば、企業のロゴマークというのは、デザインが削ぎ落とされたものの一つだろう。ただ、いつも思うのは、特に日本の雑誌や新聞を見ると、あらゆるものが入れ込まれ過ぎていることだ。特に新聞はある意味突き抜けている。一面を良く見ると、太字のゴシックから、明朝、イタリックに加え、白抜き文字や、文字の背景が黒や渦巻きのようになっているから、極めて雑多である。
限られた空間の中に、たくさんの情報を入れ込みたい気持はわかる。小さな見出しも強調したいという意図も理解できなくはない。日本語は縦書きも横書きもできるし、漢字を斜め読みできるという便利さがあるが、それとは関係ないくらい、新聞の割付には、あれもこれも入れ過ぎているように思うのは私だけだろうか。長い歴史があるから、割付を変えるのは無理なのだとは思うが、せめてもう少し簡素にして、しかも適度な空白を入れ込む方が、伝えたい何かがより浮き彫りになる気がするのである。
ともかく鍋は偉大だ。それぞれの具を楽しめるばかりではなく、食べ終わったあとも極めて重要である。残り汁にご飯を入れ、そこへ溶き卵をかけて少し蒸らしたあとのおじやが最高であることに異論を挟む余地はまったくない。もちろん、麺類もその双璧をなすだろう。それこそ、残り汁に鍋のすべてが凝縮されていると言って良い。大袈裟にいえば、鍋文化が生み出す食という究極のデザインそのものではないだろうか。そう考えると、あらゆるものを取り込んで、そこから出尽くしたものもデザインとなり得るのかもしれないと思う。
一方、話しは少し飛躍するが、彫刻という物体をつくる作業は、すべてが削ぎ落としである。その過程で削ぎ落とされた部分にはほとんど何の価値もなく、そこから浮かび上がるものが、デザインされたもののすべてだといって良いだろう。となると、鍋を食べ終わったあとに凝縮されたものと、不要な部分を削り去った彫刻というのは、その過程や求められるものが違うだけで、どちらも実は極めて似通っているのかもしれない。鍋というのも、食材を入れ込んで、その味を楽しむという行為が、実は削ぎ落としなのかもしれないと思えてきた。
そんなことに対して、実に奥が深いと言うのはかなり変わっているかもしれない。ただ、これまで鍋を見るたびに、日本の新聞の一面で繰り広げられている詰め込み過ぎの割付や、東京の雑多な並々をいつも思い浮かべるようになってしまっていたから、鍋から具を取り去るように、削ぎ落とすことの方がより大切ではないかと思うようになったが、鍋の最後に残る旨味が凝縮された汁を残す行為と、切削(せっさく)するという引き算的な行為は、根本的なところでつながっているのかもしれない。
取り留めのない内容になったが、これからは、その二つの面を比較しながら、いろいろなことを見ていきたいと思っている。
加筆訂正:2011年6月11日(土)