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還流独歩

捨てる喜び 2011.08.26

打合せ机の上と、PC机の周囲に、片付かないまま放置されていた書類の整理を朝から始めた。この手の話題は、すでに何度も書いて来たので、いつも片付けをしているような印象を持たれるかもしれないが、決して、そんなことはないと自分では思っている。

まず、打合せ机だが、ここは打合せをするための場所であって、書類を置いておくところではない。だから、その上にはできるだけものを置かないようにして、いつでも拭き掃除ができるくらいの状態にしておきたいと思っている。でも片付けられない書類が乗ったままだ。

PC机の周囲にも同じように紙媒体のものがいくつも散乱している。でも、どれもが気になるものばかりで、その数が一向に減ることがない。マウスを動かす場所が狭いというのは受け入れ難い質なので、書類をつい横にずらして広くするのだが、それは片付けたことにならない。

まずは打合せ机から開始である。書類を入れるファイルは十分に揃っているので、どれをどこに仕舞い込むかだけのことなのだが、それがなかなかできない。片付けられないというのは、要はどのように分類して良いかわからいということではなかろうか。

机の上にあるのは書類だけではない。竣工した物件の図面や公的書類、電話料金の明細書、ダイレクトメール、手紙、雑誌、某企業から送られて来る季刊の情報誌、過去の視察の行程表、企業のカタログ、見学会に参加したときにもらった資料、ドイツから持って来た建築関連の書籍など、ありとあらゆるものがある。

それらを、一つ一つ丁寧にファイルに入れ、要らないものは捨てる作業を続けているうちに、徐々にだが、机の上に隙間が広がって来た。PCの脇の紙の山は、いま進行中のものが多いので、それはすぐに取り出せるように別のファイルに入れることにする。

こういう作業を始めると、「片付けの扉」が開くとでも言うのだろか、いままで放ったらかしにしてあったものまで片付けたくなるから不思議だ。気になったまま、それを見ないようにして封印していた気持が吹き出して来て、もはや捨てる快感のようなものさえ感じてしまうのである。

捨てることは新しい何かを入れ込むことである。片付けの専門家や多くの方が、以前から、そう唱えているから、何も目新しことを言うつもりなどないが、ものが増えて行くことによる満足感とは対称に、ものが減ることに対する喜びのようなものさえも感じてしまったりもする。

ともかく、朝から片付けに取りかかったお陰で、打合せ机の上には最後のファイルが一つだけが残った。これで気分的にかなり楽である。書棚の中も数段ほど整理したいが、これは数日内に必ず終えることにしよう。そして、これからもできるだけものは増やさないで、適度に捨て続けることに決めた。

捨てるということは、きっと削ぎ落しの一つなんだと思う。無駄が減って、必要なものは何かを浮かび上がらせる作業なのだ。あるいは贅肉を落として、身体を引き締めることと同じようなことなのかもしれない。逆に汚い話を持ち出せば、排泄と同じかもしれないというのは極端過ぎるだろうか。

捨てたり、減らしたり、削ぎ落したり、出したりすることには、気分が良くなることとつながっている気がする。ただ、何でも中庸というものがあるから、捨て過ぎには注意しつつ、ものを減らして行こう。エントロピーの概念を拡大解釈すれば、世の中は捨てることで回っているのである。

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