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姫路城の保存修理 その1 2011.12.26

昨日25日(日)に、改修中の姫路城を見学に行く。正式には「姫路城大天守保存修理工事」というらしい。気温はまだ低めだが、晴れているので少しは暖かく感じられる。別名、白鷺城(しらさぎじょう)とも呼ばれる国宝の姫路城は、その全体が大天守まで巨大な箱で囲われており、その華麗な姿は、外からはまったく見ることができない。せっかく姫路まで来たのに、優美な城が見られないというのは実に残念である。改修工事の現場を見るまで、実はそんな先入観があったのだが、その偏見ともいえる憂慮はみごとに裏切られる結果となった。

見えない姫路城が近づくにつれて、中にある城よりも、まずは周囲に張り巡らされた仮囲いの方が気になる。おそらくいまの日本にある改修用の足場としては最大級といえるかもしれない。しかも真正面に向かって右側の低いところから立ち上がっている搬入用の巨大な足場は、その上を大型の重機などが移動できるくらい頑丈な鉄骨で組まれている。仮囲いも凄いが、こちらの鉄骨構造も気になってしまうのは職業病だろうか。案内の人からあとで聞いた話だが、この仮囲いと搬入用の足場だけで13億円だという。確かに、それくらいの費用がかかるのも頷ける話だ。

鉛直荷重を大地にうまく伝える役割と、外部からの侵入を防ぐために鉛直角度が60度から徐々に70度へと角度が増すように組まれた大きな石垣を見ながら仮囲いへと近づいて行く。こんなに大きな石を、どこからどうやって、そしてどうようにして積み上げていったのかさえも想像できない。現代のように、化石燃料の消費を前提とした技術など、まったくなかった時代に生き、そして荘厳な建築をつくり上げて来た先人たちの熱意と努力には敬意を通り越して、驚きを禁じえない。それはまた欧州の石造建築にも同様にあてはまることではあるのだが…。

冬型の気圧配置のため、北風が強く舞う城裾の「備前丸」から市内を一望したあと、仮囲いの中に入る。囲いといっても大きな建物ようなものだ。頂いた資料には、「素屋根工事」と出ている。この一階には簡単な展示があり、姫路城の大きな断面図には、改修の概要が書かれている。今日は見学の人が少ないが、上階へ上がる昇降機の手前には、順番待ちの人たちを整列させられるようになっているから、時期によっては、相当混むのではないだろうか。ちょうどその部分に、姫路城の歴史が短時間で学べる記録映像が流れていたので、椅子に座ってしばし眺める。

最初は、あまり真剣には見るつもりはなかったのだが、次第に引込まれてしまった。詳しいことは割愛するが、簡単にまとめると、以下のようになる。姫路城は、明治時代に入って施行された廃藩置県により、城主がいなくなり、廃墟のような状態になった。姫路の人たちは国に働きかけ、1910年(明治43年)に初めての大修理が一年がかりで行なわれた。その後、1956年(昭和31年)から64年(昭和39)かけて、城をすべて解体して復元するという世紀の大改修を敢行した。それから45年が経過し、今回は主に、屋根瓦の葺き替えと、外壁の解体修復を行なうのである。

姫路城の記録映像を見終えてから、昇降機に乗る。最初に目の前に現れたのは、姫路城を支える石垣である。姫路城の外壁は5層で構成されているが、この修理見学施設は石垣部分が、3層に分かれているので、全部で8階建てということになる。通常であれば、お城は下から見上げることしかできないけれども、この改修工事のお陰で、天守閣と同じ高さまで簡単に昇ることができることは素直に凄いことだと思う。調べてみたら、昭和の大改修のときも全面に足場が掛けられたが、見学用の昇降機までは、さすがになかったようだから、姫路城にとって初めてのことだろう。
 


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