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文章 視察 還流独歩 大福企画

2009年9月から「環流独歩-かんりゅうどっぽ」という標題で、日々の活動や、普段、思い描いていることを書き始めました。これは、JIA/日本建築家協会東海支部が毎月発行している会報誌「ARCHITECT」に寄稿させて頂いたときに、自ら付けた標題をそのまま使用しています。

移動などが多いため、抜けているところや、日付を遡っての更新も多々あります。また、どうしても誤字脱字や文章の詰めの甘さが出ることも多く、後日、読み返して気がついた箇所は、適宜、加筆訂正等を行っていますので、その旨、どうぞご容赦下さい。
 
加筆訂正:2012年1月1日(土)

八丁堀 2012.08.22

中央区に八丁堀という場所がある。私も茅場町に事務所を構えるまでは、たまに通り過ぎるだけの駅だったが、互いの距離がとても近いので、いまは頻繁に利用している。名前から判断すると、それなりの「堀」があったに違いないだろうし、「八丁」というのも気になる。地名の由来について調べるのは好きな方だから、少しだけ調べてはみたが、似たような情報ばかりで、あまり詳しいことはわからなかった。

いまの八丁堀に何があるかと訊かれても明快な答えは多くはない。会社と集合住宅が混在する、つかみどころのない街のような気もする。しかも、都心でありながら中途半端な場所という感じも否めなくはない。でも、東京駅からは歩いて来れるし、銀座にも近い。タクシーなら初乗り料金で着く。茅場町を利用すれば、東西南北の移動も楽だし、京葉線も通っているから千葉方面に行くのも便利ではある。

本題はここからだ。夕方以降に地下鉄の八丁堀駅を利用すると、舞浜方面に君臨する某巨大娯楽施設から帰ってきた人たちと遭遇することが多い。普通の会社勤めの人に混じって、某マスコットキャラクターの帽子をかぶり、大きなお土産袋をたくさん抱えた家族や、女の子同士の集団、男女が入り交じった賑やかな若者たちが地下鉄のホームや連絡通路に溢れている。小さな子供は、風船を持っていたりして、そこだけが違う雰囲気を醸し出している。

夢を売る娯楽施設から帰ってきた人たちは、皆、元気だ。日本語だけでなく、アジアの他の言語も聞こえて来る。ただ、作業を終えて、やや疲れ気味になっている私にとって、そういった人たちに囲まれると、正直なところ、かなり邪魔臭く感じてしまうのは確かだ。でも、楽しそうな人たちを見るのは決して嫌ではない。一日を終えて、心地良い気だるさを引きずる私と、想い出を一杯に抱えた人たちが交差する場所が八丁堀だったりするのである。

銭湯での会話 2012.08.21

昨日に引き続いて銭湯の話題である。身体を洗いながら話す年配の男性たち3人の会話が聞こえて来た。

「今日も暑かったねえ〜。35℃っていうけど、昔は30℃を超えることなんか、滅多になかったんじゃない?」
「確実に暑くなってるよね」。
「前は昼間でも耐えられない暑さなんて、そう多くなかったしなあ」。
「やっぱり、アスファルトと建物の影響が大きいのかね…」。
「冷房がないとやってけねえな。でも、あの排熱も暑いしね…」。
「夜も寝苦しいしなあ」。
「○×さん、夜、寝るときはどうしてんのさ?」。
「エアコンつけっ放しよ」。
「そうかい? ウチはタイマーで切れるようにしてるよ」。
「何度くらいにしてんのさ」。
「23℃」。
「ええ〜?」。
「朝までそのままさ」。
「風邪引くよ〜お」。
「いや俺、それくらいじゃないと寝られねえんだ」。
「いくらなんでも低過ぎだ〜。俺は28℃だよ」。
「布団まで冷たくして寝んのが好きなのさ…」。
「そりゃ節電に逆行だな」。
「眠れなくて寝不足になるよりましだあ〜」。
「こんだけ暑いと布団の中で熱中症になるかもしれんしな…。がっはっは…」。
「でも、23℃はないよ〜」。
「敏感な人は止めといた方が身のためだあ〜。がっはっは…」。
「暑いから、何したって健康第一さ〜」。
「そうだな〜」。
「そいじゃ、お先〜」。
「あいよ。また〜」。

水のかかる場所 2012.08.20

良く利用している銭湯に「この場所は水が掛かります」と書かれているところがある。それは水風呂に近い三つのカランの前だ。水風呂から出るとき、周りの人に水がかかるのだろう。しかも水風呂専用の桶も用意されているから、水をかぶる人も見かける。いくら銭湯とはいえ、背中に水しぶきが飛んで来ると、やはり冷たい。

この但し書きを見ると、いつも決まって思うのだが、むしろ水をかけてしまう恐れのある人の方に対してこそ、注意を喚起すべきではないだろうか。例えば、「水を浴びるときは周囲の方に配慮下さい」とか、「水風呂をご利用の方は、周りの方に水がかからないようにお願い致します」と書くべきだと思うのである。

最近はあまり見なくなったが、「猛犬注意」という看板がある。噛み付くかどうかを犬の判断に任せることはできないから、この表示はやむを得ないと思う。「漏水注意」とか、「床すべる注意」なども致し方なないだろう。でも、水風呂は違うはずだ。水をかけられる可能性のある人の方が注意しなければならないというのは、どうも腑に落ちないのである。

特に裸で利用する場所だからこそ、周りに気を配りたい。それはとても大切なことだと思うが、はたして自分は、そういった心遣いができているだろうか。「ここは水がかかります」の表示を見ると、そんなことを考えてしまうのである。

日曜銀座 2012.08.19

所用で日曜の昼下がりに銀座を訪れた。今日は歩行者天国になっていて、銀座通りは車の往来がまったくない。季節の良い時期には、車道に人が溢れているのだが、夏の太陽が照りつける今日は、道路の真ん中で休む人は皆無に近い。銀座にある某有名文房具店に立寄り、買物を済ませる。そのあと軽く食事をした。

都内を移動して、別の買物にも出かけようと思いつつ、夏というのは、少し外にいるだけで、結構、疲れてしまうことが多い。先日、北海道に帰省したときは、ほど良く涼しいから、身体がかなり楽だったし、夜も寝苦しい思いをすることがなかったので、心地良く眠れたのだが、東京へ戻って来ると、また元通りである。

この夏は、耐え切れないほどの猛暑でもないけれど、それでも十分に暑いと思うし、アジアのさらに先の極東にも関わらず、こんなに蒸し暑いというのは、どういうことなのだろうかと、改めて考えたりもする。もう少し涼しくなったら、今度は少し気持に余裕を持って、都内を巡ってみようと思う。

地下鉄とバッタ 2012.08.18

夕方、地下鉄に乗った。隣りの車両に近い三列席が空いていたので、一番端に座った。そして、いつものようにPCを広げて作業を始めたら、視界に動くものが入ってきた。私の左側には、何かを収納しておくための奥行10cmくらいの棚のような場所があるのだが、その上にバッタがいたのである。一瞬、たじろいだが、かなり弱っているようで、動きも鈍いから、不意に近寄ってきたり、飛ぶ気配もなさそうだ。

そんなバッタを見ていたら、何だかとても可哀想に思えてきた。透明な窓ガラスから外へ出られると思うのか、前足で懸命にガラスを引っ掻く姿が、やけに痛々しい。どこから入ってきたのか知らないけれど、この車両から出るのはまず無理だろう。しかも地下鉄だから、捕まえて、どこかに放してあげるわけにもいかない。このバッタだって、望んで入ってきたわけでは決してないだろう。だから、元気のない姿を見るのは何だかとても辛い。

一匹のバッタがどうなろうとも、私の生活には何の関係もないけれど、弱々しくも懸命に生きようとしている光景を地下鉄の中で目の当たりにすると、何だか不思議と胸に熱いものがこみ上げてきたりするのだった。地下鉄が地上に出たときに、誰かに外へ放してもらえたら良いのだけれど、おそらく無理だろうなあ。でも、もしかしたら、助けてくれる人がいるかもしれないなあ。そんなことを思いながら地下鉄を降りた。夏の夜空が目に痛い。

気持の切換え 2012.08.17

昨日、今日から再起動をしようと書いたが、休みを終えたあとというのは、気持を切替えるのが難しかったりする。それは人にもよるだろうし、あるいは体調や気分的な問題も大きく関係しているのかもしれない。それは自分に対する甘えだと言われればそれまでだが、作業に身を入直すのに意外と時間がかかってしまったりする。ドイツの人のように、3週間くらいの休暇を取った場合はどうなるのだろう。実に余計なことだが、そんなことを考えたりする。

ドイツ人の友人が言っていたのを想い出す。「1週間の休みなんて、休暇って呼ばないわよ」。確かにそうかもしれない。この意見に沿えば、休暇というのは最低でも10日間以上ということになるのだろうか。以前にも書いたかもしれないが、家族がいる友人の三週間の休暇の使い方は、だいたい次の通りだという。まず、家の片付けが一週間、その間に子供とふれあい。次の10-12日間に旅行し、帰ってきたあとの残りの数日は身体を休める日だそうだ。

これまで、そんな休暇を取ったことなどないけれど、彼のような休み方に、少し憧れてしまったりするのである。

移動終了 2012.08.16

午後、東京に戻る。電車で移動し、地下鉄の出口から外へ出ると、一気に暑さに包まれる。地下鉄の駅を一つ分歩くだけで、汗が流れ出て来た。周囲を見渡すと、夏期休暇を終えて、今日から通常業務に戻った会社が多いようだ。ほとんどの飲食店も開いているけれど、普段に比べて街を歩く人もそれほど多くはなく、まだ何となくお盆休みの雰囲気が漂っているように感じられる。

留守にしていた間に、郵便が5通ほど届いていた。その中には、今月末に受講する講習の受講証もあった。受講資格が得られるか少し不安だったが、業務経歴も問題なく認められたようで、その点については安心した。ただ、作業が詰まっている状況の中、3日間も缶詰のような状況に置かれることを考えると複雑な気持ちである。他にも電話の請求書や医療保険などの書類が届いたので、それらを整理した。

東京に帰ってきただけなのに、今日はこれだけで精一杯である。明日から再起動しよう。

淡路島 2012.08.15

友人家族と車で淡路島へ向かう。明石海峡大橋を渡るのは初めてだ。何か大きな目的があるわけでもなく、友人たちの提案に乗せられるがままの移動だが、そんなゆるい感じが心地良い。昼食を済ませたあと、海水浴場へ行く。東京近郊の騒がしい夏の海とは程遠く、海水浴客もそれなりにいるものの、何ともいえない気だるさのある雰囲気が漂っている。そう言うと失礼だが、決して悪い意味ではない。どこか海辺の田舎の正しい光景なのかもしれない。

久しぶりに海で少し泳いだあと、近くの美術館を訪れる。沖から吹き上げて来る海風が心地良い。島と海と美術館。何とも言えない組合わせである。いつも思うのだが、こういうところには、不思議なことに緩やかな時間が流れている。その中にいると、妙な郷愁を感じたりもする。それは、自然の中に身を置くときに感じられる哀愁のようなものだったりするのかもしれない。沖を行き交う船を見ながら、そんなことを考えた。

夕方、大阪市内に戻り、一緒に食事を済ませて、そこで友人家族とお別れする。ほんのわずかの時間だったけれど、会う時間をつくって頂いたことに心から感謝である。

北海道から大阪へ 2012.08.14

昼前の飛行機で北海道から大阪へ向かう。午前中は千歳空港で数時間ほど作業し、大阪空港に着いたあとも、また空港内で3時間近く作業を行なう。お盆休みだけれど、こういった時間にこそ、溜っていることを少しでも済ませておきたい気持が強い。本当なら、そんなことは一切忘れて、休暇を楽しめば良いのだが、最近はどうもそれができない。

夕方、なんばへ向かうバスに乗り、電車に乗り換えて友人宅にお邪魔する。こんな時期に快く迎えてくれるというのは実に有難いことである。大阪はもっと暑いかと思ったが、それほどでもない。ただ、風がないから家の中は蒸し暑く感じられるものの、それでも扇風機があれば十分にしのげる。

北海道から大阪に移動して、ここでも束の間の時間が過ぎて行く。ただ、それだけでも感謝の気持ちが沸いて来る。最近、いろいろなことに対する有難みというものを、より強く感じるようになった。誰かや何かといった特定の対象ではないのだが、それらのすべてに対して、とても有難いと思えるのだ。何なのだろう、この気持ち。

ともかく、何だかすべてに感謝な気持で一杯なのである。それははたして幸せということなのだろうか。どういうわけけか、普段はあまり考えないようなことに想いを巡らせてしまうのはなぜなのだろう。

束の間の北海道 2012.08.13

一昨日の土曜の夜、帰省のため、羽田空港から千歳へ向かった。ちょうどお盆の時期に北海道に向かうというのは本当に久しぶりである。羽田空港は混雑しているかと思ったら、それほどでもない。ただ、飛行機は満席である。定刻よりも10分ほど遅れて駐機場を離れた飛行機は、滑走路の手前で離陸をかなり待たされ、千歳には30分近く遅れて着いた。この程度の遅延など気にするほどのことでもないけれど、夜10時を回っていたから、足早に空港をあとにする人も多かったようだ。

昨日の日曜は、午前中に親戚家族を顔を出し、総勢、10名で納骨堂へ行き、お参りをし、その他にも墓参りを二つ済ませた。いずれも遠くはないのだが、車で移動し、ついでに買物したりすると、あっという間に時間は過ぎてしまう。「田舎に帰ったらゆっくりしてきて下さい」とお気遣いのことばを頂くことも多いが、私の場合、のんびり過ごしたことはあまりないような気もする。もはや自分の居場所もないから、何となく落ち着かないし、かといって、北海道の自然を満喫しようという気にもならない。実にもったいないと思う。

墓参りを済ませた日曜の夕方は、ジンギスカンで締めることになった。親戚が集まる夏の好例の行事のようなものである。夕方前から炭をおこして、順次、飲み物の用意をする。全員が集まる前に勝手に乾杯を始めたりするのも無礼講だ。それにしても、ジンギスカンというのは北海道の味覚の代名詞とまで言っても良いくらいである。今日は、道路を挟んだお宅と、裏庭の向こうのお宅でも、同じように人が集まっていて、その煙の出方を見る限り、間違いなくジンギスカンを焼いていると思われる。気がつけば日が暮れていた。時折吹く風が心地良い。

2月に大雪が降って、汗だくで雪かきをしてから半年が過ぎた。そしてまた、お盆を過ぎると秋風が吹き始める。北の大地のわずかな夏が過ぎて行く。この時期の北海道は、本当に気持が良いのだが、何だか一瞬、虚しさのようなものを感じたりしてしまうときがある。北海道で生まれ育ったのに、いまは離れて生活していることに対する微妙な葛藤のようなものが、ふと自分の中で沸き起こるからなのかもしれない。でも、身体のどこかに、いまも北海道が確実に染み付いている。それが何なのかはわからないけれど、郷里の風景を見ると、そんなことを考えてしまうのである。

素晴らしき北海道に感謝である。